64.毒

















 その日、シュラは朝から十二宮の石段を昇っていた。
 アフロディーテから、とある書籍を貸して欲しいと言われ自宮を探してみたところ見あたらず、よくよく考えてみれば、数ヶ月前に上隣の水瓶座に貸したのだったと思い当たった。
 そういう訳で、宝瓶宮に向かっているのである。
 朝、とは言ってもシュラにしてみれば、とっくの昔に起床して朝の鍛錬を済ませ、朝食を摂り、簡単な家事すら済ませた時間である。誰から見ても充分、常識的な活動時間と言って差し支えない時刻だ。・・・だからまさか、いつも頑ななまでに生活を変えない水瓶座が寝起きだなどとは思わなかったし、その上、こんな状況にぶち当たるとは、油断したとしか言いようが無かった。
 宝瓶宮の私室をノックしたら、出てきたのは蠍座だった。・・・しかも、素肌にバスローブを引っかけただけという出で立ちで。


「・・・何だよ、その顔?」
 出てきたミロを見た途端、シュラは脱力してがっくりと床に手をつきそうになった。だが何とかそれを持ちこたえ、深い深い溜息を落とす。
 そんなシュラの様子に、当のミロは怪訝顔だ。
「俺が宝瓶宮にいるのが、そんなに変か」
「・・・・・・・いや」
 変なのは此処に居ることではなくてお前のその格好だ、とシュラは激しくツッコみたかった。バスローブといい気怠げな様子といい、どう見たって『事後』の遅い朝ではないか。しかもちらりと目に入った処では、覗く鎖骨のあたりに紅い跡まで残っていて疑いようも無い。
 天蠍宮と宝瓶宮の間の唯一の有人宮に住まう身としては、はっきり聞いたことなど無くとも蠍座と水瓶座がどういう間柄か、大体察してはいた。だからこそ、こういう場面に遭遇しないよう、今まで相応の注意を払ってきた。なのに何故か今日に限って、完全に油断した。大体において、何故こいつはこんな格好のまま自分の前に平然と出てくるのか、理解に苦しむ。
 ・・・そんな諸々を頭の中でぐるぐる考えながら、シュラは言いたい言葉を大量に飲み下しつつ、出来うる限り平静に言う。
「・・・カミュはいるのか」
「勿論いるぞ。あんたが来るのに気づいて起き出して、今シャワー浴びてる」
「・・・・・・そうか」
「で?用件は」
 仕方がないので本の事を伝えたら、ミロはあっさりと身を引いて、シュラに入り口を明け渡した。
「なら、悪いが自分で探してくれ。俺じゃ判らない」
 あまりのあっさりさ加減に、シュラは唖然とする。
「・・・・・・・・。・・・いいのか、邪魔では」
「? 何故。あんたならカミュも別に何も言わんだろ」
 天然なのか何なのか、素で言うミロに言い返す言葉もない。あまりに当然のようなその態度に、今更踵を返す事も出来ず、シュラは結局逢い引き現場である処の宝瓶宮の私室に邪魔することになった。
 本なら多分此処だろう、とカミュが書斎がわりにしているという部屋にシュラは通された。壁一面、ぎっしり本のつまった書棚が置かれたその部屋は、本棚のみならず床やらデスクの上やら、とにかく本だらけだった。さすがにシュラ一人をそこにほっぽり出しておく訳にもいかないと思ったのか、ミロは欠伸を洩らしながら、デスクの前に座ってそこらに散らばる本を、見るともなしに捲って眺めている。
 それを尻目に、シュラは目的の本を探し出して早々にお暇すべく、本棚を物色する。・・・が、やはりどうにも気になって、問いかけた。
「・・・本当に、カミュに無断で俺が入って良かったのか」
「だから何故。あんたカミュと喧嘩でもしてるのか」
「そんな訳あるか」
「だったら問題ない。隣だし、端でみるよりか親しくしてるんだろう」
 その言葉に、少し驚いてミロを見る。
「・・・どうしてそう思う」
「カミュの話聞いてりゃ判る。それにあいつ、アフロディーテともそこそこ親しいだろ。上隣とだけご近所づきあいしてるって訳でもないだろうからな」
「・・・成程」
 一応納得して、再び本棚に視線を戻す。確かにミロの言う通り、周囲が思うよりはカミュと話すことは多いかもしれない、とシュラは思う。幼い頃から感情の発露が苦手、かつ少ない癖に、頭の中には様々な激しい情動を隠し持っているらしい水瓶座は、シュラから見て面白く思えたし、比較的気も合った。こうして本の貸し借りをする程度には、親しくしている。
 ・・・ふと見ると、ミロは何故か深々と溜息をついて、デスクの上にごろごろと頭を転がしていた。寝乱れたままの金髪が、更にもつれてくしゃくしゃになって机の上に散っている。
 珍しく体調が悪そうなその様子に、シュラは思わずまた声をかけた。
「・・・具合が悪いのか、ミロ」
「具合っつーか・・・」
 はあ、とまた溜息。
「・・・腰が痛い。疲れた。人が黙ってりゃ好き勝手しやがって、カミュの奴ムカつく」
 ・・・ごっとん、とシュラが手に持っていた本が床に落ちた。
「おい、本落とすなよ。俺がカミュに文句言われるだろ」
「・・・・・・−−−」
 今度はシュラが、深々と溜息を落とす。脱力した体をなんとか本棚で支えつつ、ぎろりとミロを睨み上げた。
「・・・お前な・・・。そういう話を平然と人前でするな」
 は?とミロは心外だという風に眉根を寄せる。
「あんたが聞いたんだろ」
「そういう意味で聞いたんじゃない!お前は慎みとかそういうモノが無いのか!」
 そのシュラの言葉に、ミロは今度はげらげら笑い出す。
「面白いこと言うなよ、シュラ。何であんたがそんなに狼狽えてんだ」
「何でもクソもあるか!普通だ!」
 くっく、とミロは相変わらず可笑しそうに笑っている。頬杖をついて、笑んだ口元を掌で隠すようにして、笑う。
「他の誰が知らなくても、あんただけは当然知っているものだと思っていた。行き来するのに、どうしたってあんたの宮を通るんだからな。おかしな時間に頻繁に行ったり来たりしてたのを、一体何だと思ってたんだ」
「・・・察してはいた。だが、それとこれとは話が別だ」
 憮然と言った言葉に、どう別なんだ、とミロはまた笑う。
 ・・・道理であっさり中に通した訳だと、今更ながらシュラは合点がいった。当然バレているという前提なら、このぞんざいな対応も頷けるというものだ。一体俺のことを何だと思っているのだ、とは思うけれども。
 なんとも下世話な状況としか思えなかったが、下世話ついでに、シュラは言ってみる。
「・・・聞いて構わんのなら・・・」
「何だ?今まで黙って夜這いを黙認してくれてた礼に、何でも答えてやるけど」
 どこまで本気か判らない顔でにやにや笑っているミロに、シュラはもう一度溜息をついて、言った。
「・・・お前、カミュのことが・・・好き、なのか」
 シュラは自分の言葉にむせこみそうになりながら、それでも尋ねた。・・・実を言うなら、シュラはかねてから大変謎だったのだ。確かに昔から仲が良いのは知っているし、『夜這い』とやらの事実も判っている。だが、恋愛、という言葉が、この二人に似つかわしいようには、どうしても思えなかったのだ。
 ミロは、何を言っているんだこいつは、と言うように一度眼を瞬かせる。
「嫌いな訳ないだろ、この状況で。好きでも無い奴と寝るかよ」
「・・・好き、というのは、女のようにか」
 ・・・それを聞いた途端、ミロが爆笑した。
 腹を抱えて涙すら浮かべて、ばんばんと手元の本の表紙を叩いてげらげら笑う。
「凄い質問だなそれは・・・!俺があいつの事を女のように思っているかという意味か、それとも俺が女のようにあいつを好きだと思っているのかと聞いてるのか!?」
「・・・どちらでも」
 あまりに大笑いされて憮然とするしかないシュラに、ミロは尚も笑い続ける。
「傑作だ、少なくともカミュのどこらへんが女のように見えるのか、聞きたいもんだが。あんたには、そう見えるのか」
 そんな訳なかろう、と渋い顔で応じたシュラに、ミロは必死で笑いをかみ殺しつつ、言う。
「確かに顔の造形は、女も顔負けだと思うし髪も長いが、俺はあいつを女のようだと思ったことなど一度も無い。あいつもそれは同様だろ、俺を女のようだと思っているなら、もう少しマシな扱いをする筈だし」
 機嫌が悪ければいくらでも冷淡になるし、寝相が悪いと言ってはベッドから蹴り落とすし、と言ってミロはくすくす笑う。
「何にせよ、今の質問、カミュにはするなよ。凍結標本にされてエーゲ海に捨てられても文句は言えないぞ」
「・・・。だったら、何故−−−」
 語尾を淀ませたシュラに、ミロはまた小さく笑う。
 ・・・普段から表情豊かな人間だが、ミロがこれほど笑うのを、もしかしたら初めて見たかもしれない、とシュラは思う。それに今見せているのは、屈託無い明るい笑顔というよりは、どこか陰に秘めたような笑みだ。・・・話題や状況が、きっと悪いのだろうが。
「さあ、何故かな。手っ取り早い娯楽?」
 巫山戯た調子のその言葉にシュラが顔をしかめたのを見て、ミロは可笑しそうに言葉をつぐ。
「そういう言い方が気にくわないなら・・・そうだな、ちょっとした毒みたいなものか」
「毒・・・?」
「そう。麻薬みたいな」
 そう言って、口の端を少し吊り上げて、笑む。−−−細めた青い眼が、まるで猫のようだ。
 麻薬、と言うその言葉の意図もシュラには測りかねたし、ミロが何を考えているのかさっぱり判らない。
 だが、こんな笑みで夜を過ごすのであればこれは質が悪い、とシュラは理由もなく思う。今まではむしろ、よくあのひねくれ者の水瓶座に蠍座が付き合ってやっているものだと思っていたのだが、もしかしたらそれは逆なのかも知れない。
 ミロのその笑みと喩えの不穏さに呆れたシュラは、溜息を落とした。
「・・・毒物扱いとは、それこそカミュが怒るのではないのか。・・・少なくとも、大事に思っているのかと思っていた」
「思ってるぞ?女神以外でなら、誰よりも、何よりも」
 ミロは自分の腕に頬を埋めて、喉の奥で笑う。
「自分の命よりも、と言ってもいいけど、それは難しいな。命や力は、女神のものだから」
「・・・ワケが判らん。お前がそんな冗談を言うとは知らなかった」
「そうか?」
 肯定とも否定ともつかぬ、曖昧な返事をミロは楽しそうに返す。
 −−−その語尾に、突然割り込んだ第三の声が重なった。
「・・・何の馬鹿話をしている。女神の御名を、おかしな話で軽々しく引き合いに出すな」
「カミュ」
 書斎の入り口に姿を現した宮主は、さすがにバスローブ一枚なぞではなかったが、シュラには珍しいラフな格好だった。気崩したシャツに生成りのスラックス、という服装で、まだ生乾きなせいで常より深い色味に見える紅い髪を、鬱陶しげに肩に払っている。
 カミュは、侵入者である筈の隣人にではなく、蠍座の方に不審げな一瞥をくれた。
「シュラ相手に、何を喋っていた。もの凄い馬鹿笑いが浴室にまで聞こえた」
「別に。毒物の取り扱いについて等々、諸々の話題で歓談を」
「・・・毒物?」
 益々胡乱な顔のカミュに構わず、ミロはさっさと立ち上がり、俺も風呂、とだけ言い残して出ていってしまう。・・・結局最後まで、可笑しそうに笑いながら。
 そんなミロの後ろ姿を尻目に、カミュはシュラに眼を向ける。その表情は平素となんら変わりない、無表情に限りなく近かった。
「・・・勝手に上がり込んで、済まなかった。ミロが構わないと言ったので、甘えさせてもらった」
 カミュが何か言う前に口火を切ったシュラに、カミュはほんの僅か、表情を和らげたようだった。
「構わない。それで用件は」
 殆ど忘れかけていた当初の目的を、シュラはかくかくしかじかと説明する。するとカミュは、それならこれだと、山と積まれた本の山からあっさりと目的の一冊を探り当て、差し出してきた。
「返すのが遅くなって申し訳ない。何度か読み返していたものだから」
 気に入ったのなら良かった、とシュラは本を受け取る。・・・そんな会話は、やはり普段と何ら変わりなく、先程までのミロとの会話がまるで嘘のようだ。
 そんな事を考えながら、思わずつくづくとカミュを眺めていたら、今度はカミュはシュラに向けて不審げな視線を向けてくる。
「・・・ミロと何の話を? 毒物というのは、何の事だ」
「いや・・・大した話では・・・」
 誤魔化そうとするが、元来口先八丁などとは無縁のシュラは、しどろもどろとした挙げ句に、ようよう言った。
「・・・ミロが、お前の事を毒だか麻薬だかに喩えて、笑っていたのだ」
「麻薬?・・・何だそれは」
 訳が判らない、とカミュは眉根を寄せて呟くが、馬鹿馬鹿しくなったらしくそれ以上は聞いてこず、シュラは少なからずホッとする。きっと後で、ミロ自身を問いつめるつもりなのだろう。
 兎にも角にも、目的を達したので暇を告げ、シュラは早々に宝瓶宮を出た。
 ・・・去り際、出入り口まで律儀に送りに出たカミュは、ふと思い出したように、言った。
「・・・シュラ。先程、毒、と言ったが」
「−−−ああ」
 見返したシュラに、カミュはうっすらと口の端で笑む。
「毒を持つのは蠍だろう。私では無いよ」
 −−−そうかも、知れない。
 先程のミロの様子を思い出し、シュラはただ黙って頷いただけだった。











<050421 UP>



・・・シュラとカミュは、妙な友情があったらいいなと思います。
マイペースな蠍と水瓶に物理的に挟まれて(宝瓶宮と天蠍宮の間の磨羯宮)、不可抗力で振り回される山羊、という図と、爆笑するミロが書きたかったという馬鹿話・・・。


今回の水瓶と蠍は、『導く者』から始まる一連のいつもの話の二人とは少し違って・・・『41.眠い』『49.思い出せない』の辺りの流れ・・・つまり水瓶は冷淡ぞんさい系、蠍は確信犯的誘い受系(^^;)という二人のつもりです・・・。『28.向こうから見たこっち』もそうかな・・・?
こういう系統の違いも、判りやすくすべきなのかなと思ったり・・・。

全然どうでもいいですが、背景の花、ポピー(芥子。麻薬の原料)です(笑)。


モドル