白い闇









 それは、カミュが14歳という歳でシベリアに住居を持ち、二人の幼い子供を聖闘士として育てるべく引き取ってから3年という時間が流れた、ある日。

「邪魔するぞー」
 挨拶、と言うのもおこがましいようなそんな言葉と共に、その家の扉を開いたのは、鮮やかな金の髪を冷たい風になびかせた蠍座の聖闘士だった。
 シベリアの短い夏。・・・夏、と言っても極寒の地のこと、氷や雪が無くなる訳ではない。わずかに日の光が強まって、少しばかり氷の厚さが薄くなるという、その程度のことだが、それでも真冬の零下何十度という世界に比べたら格段の違いだ。温暖なギリシア生まれのギリシア育ちであるミロは、決まってこの真夏の頃に、比較的頻繁にシベリアの友人のもとに顔を出した。
 扉を開いて部屋の中を覗き込んだミロの姿に、やはり金の髪をした子供が気づいて駆け寄ってくる。
「ミロ!いらっしゃい」
 そう言って迎える子供の名前は、氷河。ロシア人と日本人のハーフで、今年10歳になる。ミロよりも薄い金の髪と、やはり薄い青色の瞳を持った聖闘士候補である。シベリアに来て3年、時折顔を出すミロとは、すっかり顔なじみだ。
 カミュの教育の成果か、こんにちは、と折り目正しく挨拶する氷河に、ミロは微笑する。
「よう。氷河、お前の師匠は?」
 ミロは、上着代わりに身体に巻き付けた厚手のマントに散らばる雪の結晶を払い落としながら、部屋の中を見渡した。質素で飾り気など何もないが、清潔な部屋。その中には友人の姿も気配も無かった。
「先生は近くの町まで出てます。今は俺とアイザックだけです」
 言った氷河の顔を見て、ミロは笑う。
「なんだ、置いてけぼりの留守番か。カミュ、いつ戻る?」
「夕刻には」
 氷河がそう答えた時、声を聞きつけたのか、奥の部屋からもう一人の子供が顔を出した。氷河より幾分背が高い。こちらは今年11歳になる氷河の兄弟子で、アイザックである。
「いらっしゃい、ミロ。最近よく来ますね。聖域の黄金聖闘士って暇なんですか?」
 そう言ってにやと笑うアイザックの銀髪の頭を、ミロはいきなりごんと叩いて黙らせる。・・・勿論軽く叩いただけなので、ダメージは殆どなかったが。
「一言多い。お前、そーゆー嫌味なとこだけカミュに似てどうする」
「・・・それ、先生に言いますよ。ミロ」
 頭を痛そうにさすりながら上目遣いで言うアイザックに、ミロは笑う。
「いいぞ、じゃんじゃん言え。俺は散々直接言っているしな」
 その返答に何も言い返せず、アイザックはただ頭をさするばかりだ。
 ミロは、改めて主不在の家の中を見やって、少し考える。
「どうするかな。カミュが戻るまで、待たせてもらってもいいか」
 その言葉に、氷河とアイザックは顔を見合わせ、それから二人してにっこり笑う。
「勿論。・・・と言うか、どうせ待つならその間、組み手でも教えて貰えませんか。いつも悪いですけど」
 アイザックの言った言葉に、ミロは楽しそうに笑んで、ぐしゃぐしゃと二人の金と銀の髪をかき回す。
「いい心がけだ。少しは上達したか」
「まあ少しは。勿論、まだまだですけど・・・なあ氷河」
 顧みたアイザックに、こっくりと頷く氷河。その二人を見やったミロは、ふと手をひっこめて、言う。
「・・・組み手はいいんだが。その前にな」
「はい?」
 ミロは、巻き付けているマントの袷を引き寄せて、真面目な面もちで言った。
「・・・悪いが、何か温かい飲み物でも出してくれ。寒くて死にそうだ」
 ・・・ギリシアの現在気温、32度。一方、ここシベリアの気温、−3度。実に気温差30度以上を瞬間移動してくれば、さすがに堪える。防御小宇宙を隙間無く張り巡らせれば大分マシな筈だが、平時にそこまでする気にもなれず、結局殆ど寒さ直撃である。
 ミロの言葉にアイザックと氷河は可笑しそうに笑って、客人の為に暖炉に火を入れて、湯を沸かすのであった。




 二人の子供に温かいコーヒーを一杯淹れて貰ったミロは、改めて子供たちと外に出た。
 ・・・そこは見渡す限りの雪原というか氷原というか、とにかく白一色の世界で、ミロはいつ来ても呆れてしまう。その上今日は、あまり天候が良くなかった。夏なので吹雪くことはまずないが、それでもちらちらと降る雪は続いており、灰色の雲越しに見る陽光は弱々しい。つい先程までギリシアで見ていた照りつける太陽と同じものとは、とても思えない。
 ・・・せめて晴れていれば、日の光に輝く氷壁の姿を美しいとも思えるのだが。
 ミロは子供たちと雪の上をさくさく歩きながら、周囲の景観を一回り眺めて、ため息をついて言った。
「・・・今日はもう晴れないかな?」
「多分。明日には、雪もやむかもしれないけど」
 答えた氷河に、そうか、と答えて、ミロはもう一度ため息をついて立ち止まる。出てきた家から少し離れた、広く拓けた場所で、二人の子供たちに向き直った。。
「・・・さて、相手をしてやる。二人まとめてかかってきていいぞ」
 マントも取らずに笑って言ったミロに、子供二人は勇んで挑んでいった。




 ・・・2時間後。
 息を切らして雪の上に転がった二人の子供の傍らにしゃがみこんで、ミロは笑う。
「二人とも、大分スピードついてきたじゃないか。スジはいい」
 結局マントもそのまま、当然のように息一つ乱さない年長の黄金聖闘士を、アイザックと氷河それぞれに見上げた。灰白色の空を背に笑うミロの周囲に、子供たちの目にうっすらと赤金色の小宇宙が透けてみえるが、それも平常の状態とさして変わらない程度のものだ。
「・・・勝てるとは、さすがに思ってないけど・・・一矢報いるくらい、したいなあ・・・」
 息切れしながら、口惜しそうに言ったアイザックに、ミロは楽しそうに笑う。
「せいぜい頑張れ。楽しみにしてるぞ」
「ちぇ」
 ふて腐れたように呟いたアイザックを後目に、氷河は雪の上に起きあがると、しゃがみ込んだままのミロにひどく真剣な面もちで言った。
「・・・どうしたら、もっと強くなれますか。俺は、先生やミロみたいな力が欲しい」
 唐突なその物言いに、ミロはまた笑う。
「ガキがナマ言うな。一足飛びで強くなられて堪るか。俺たちだって、お前らくらいの歳の頃は今よりずっと弱かった」
「・・・でも、もう黄金聖闘士だったんでしょう。七つの時には黄金聖衣を貰ったって聞きました」
「まあな」
 ぽりぽり、とミロは金の髪をかく。
「・・・でもそれは、いわゆる『星座の宿命』ってやつで・・・。強い弱いとはまた少し別のところで、教皇たちが決めたことって気がするが」
「けど、今の俺たちよりはずっと強かった筈だ。だって聖衣が認めたんだから・・・」
 そう呟いた氷河は、何やらひどく落ち込んでいる様子だった。ミロは、やれやれと言った顔で、氷河の金髪の頭を軽く叩く。
「・・・あのな、自分は自分、人は人だ。俺には俺の宿命や責任があるように、お前にはお前の道があるだろう。お前らはこれからなんだから、焦るな」
「でも・・・」
 尚も言い募ろうとする氷河を、ミロは黙らせるように少し強い口調で言った。
「言っておくが、俺たちが今持つこの力をラクに得たと思うなよ。幸いお前らには才能も根性もあるし、カミュの傍にいれば間違いはない。だから今は、地道に力をつけて技を磨くことを考えろ」
 そのミロの言葉に、アイザックが身を起こした。
「・・・本当に、そう思いますか。鍛錬を続ければ、いつか自分でも納得できるくらい強くなれるって、思ってていいのかな」
「・・・今更何を言ってるんだお前ら」
 ミロは、やや呆れた顔で二人の子供を見やる。
「・・・大体なあ、見込みがない奴の為に黄金が聖域を離れるわけがないだろう。お前ら、十二宮の守護をなめるなよ」
 それを聞くと、アイザックと氷河は揃って顔を見合わせた。そして二人して、にっこりと笑う。
「・・・そうでした。先生は俺たちがいるから、ここにいてくれるんですもんね。焦らずやります」
「よしよし」
 素直な返答に満足そうに笑んだミロは、ふと表情を改めて顔を上げた。
「・・・ミロ?」
 ミロの様子に不思議そうに声をかけた氷河に、ミロはにやと笑う。
「・・・帰ったようだぞ。思ったより早かったな」
 その言葉に、二人は遠くに見える家の方を見やるが、人影も見えず特に変わった様子はない。・・・が、見ているうちにパタンと中から扉が開き、遠目にも鮮やかな赤い髪の人物が現れた。人影はてくてくとこちらに歩いてくる。
 目を丸くしたアイザックが、ミロを顧みた。
「・・・なんで判ったんです? てゆーか、普通に町から帰ってきたら、この辺りを通る筈なんですけど」
「面倒になったか何か知らないが、瞬間移動してきたようだぞ。近くにいれば、小宇宙の気配ですぐ判る」
 そう言ってミロは立ち上がり、近づいてくる友人に向かって手を振る。カミュの方も歩きながら、軽く手を振り返してきた。
 やがて普通に声が届くくらいまで近寄ってきたカミュは、微笑を見せた。
「留守にしていて悪かった。大分待ったか」
「俺が勝手に来てるんだから、お前が謝っても仕方ないだろ。こいつらとじゃれてたから、楽しかったしな」
 ミロは言いながら、傍らにある金銀の髪をかきまわして、笑う。
 そして子供たちから手を引くと、ふ、と表情を改め、カミュに視線をやった。
「・・・少し話がしたいんだが。時間をくれるか」
 カミュを見たその目が、常にはなく真剣な面もちなのをカミュは気付いて、少し不思議そうにミロの目を見返した。そしてしばしの沈黙の後、言う。
「構わないが。・・・家で?」
「ここでいい」
 短いミロの返答に、わかった、と答えてカミュは子供たちに言う。
「・・・お前たちは、先に戻るといい。私たちもすぐに行くから」
 はい、と二人揃って素直に答えて、氷河とアイザックは先を争うように走り出す。二人で何やら喋りながら笑い合う声が遠ざかっていくのを、ミロとカミュは黙って見送った。
 ミロは、傍らの友人を顧みて、微笑する。
「あいつら、いつも仲良くていいな。見ていて楽しい」
「・・・相手をしてくれていたようだな。済まなかった」
 カミュの言葉に、ミロは目を細めて、笑う。
「面白かったから構わない。・・・あいつらとじゃれてると、昔、アイオロスやサガに相手してもらったのを、思い出す」
 カミュは、少し驚いたようにミロの顔を見た。
 −−−今はいない、射手座と双子座の黄金聖闘士。
 ・・・10年前、射手座アイオロスはアテナ殺害を企てた逆賊として誅殺された。そしてその直前、双子座のサガは突然行方をくらましている。サガの失踪については当時様々な憶測が飛んだが、結局真相は闇の中のまま、未だその行方は知れない。・・・どちらにせよ、黄金聖闘士としての責務を放擲した時点で聖域に仇なした者とみなされた。それ故、彼ら二人の名は聖域では既に禁句に近く、今もって口にする事すら忌避されている。
 ・・・なのに敢えてその名を口にしたミロに、カミュは視線で問いかける。
「・・・話があると言っていたな。聖域で何かあったか」
「・・・いや」
 一つ深いため息をついて、ミロは手近な、雪をかぶって氷のように見える岩に腰掛ける。
「・・・何かあったという訳じゃない。ただ、どうしても気になる事もあって・・・いつか話そうと思っていたんだ。聞いてくれ」
 その青い瞳で、ミロはカミュを見やる。
「−−−最近、何かがおかしい気がして、気持ちが悪くて仕方がないんだ。・・・多分、それぞれは些細な事だ。聖域全体のアテナの神結界が何となく弛んでいる気がする、教皇宮の周囲で頻繁に教皇の側仕えの死体が見つかる、双児宮の双子座の聖衣が時折妙な気配をさせている、このところ下る勅命の内容に不整合があったりする・・・そういう一つ一つの事が、どこか頭に引っかかって、ひどく気持ちが悪い」
 ミロは一旦言葉を切って、灰色の空を遠く臨む。そして不快そうに、眉をひそめて呟いた。
「・・・まるで聖域が、深い霧で覆われているように感じることがある。・・・何かが酷く間違っていて、少しずつ狂っていくような」
「−−−・・・」
 黙って聞いているカミュに視線を戻して、ミロは更に言う。
「・・・なあ。俺は最近、よくアイオロスやサガのことを思い出す。共に過ごしたのは1年足らずの間だったが、俺が覚えている彼らは誠実だったし、決して自らの責務をおろそかにするような人間ではなかったと思う。・・・それは単に俺がガキで、彼らの真の姿が見えなかっただけか」
 真っ直ぐに目を見て問いかけてくるミロの瞳を見返して、カミュは暫く沈黙する。だがやがて、かすかにため息をついて、言った。
「・・・お前が話したい事というのは、それか」
「お前は聖域の外にいる。外からはどのように見える。時折帰る聖域は、お前にとって以前と変わりないのか・・・それが聞きたかった。・・・俺は」
 ミロもまたひとつため息をつく。
「俺は、ことこの件に関しては自分の感覚に自信が持てない・・・俺の方がおかしいのかと思う」
「・・・そんな事を言うのは初めてだな。何故今、ここで?」
 カミュの問いに、ミロはぶすりとした顔で言う。
「・・・単に俺が、気持ち悪さに我慢できなくなっただけだ! 一度お前に聞いておきたかったんだが、こんな話は聖域内では出来ないだろう。本当はムウのところにも行こうかと思ったが、ムウはただでさえ聖域とは折り合いが悪いし、今まで一度も訪ねたこともないジャミールに俺がいきなり行ったら、それはそれで不審だろう」
 −−−『不審』。
 ・・・それは一体、誰が、何に対して、どのように感じるものなのか。カミュはまた小さくため息をつく。
 誰にも・・・ミロにさえ漏らしたことはなかったが、確かにカミュの目から見ても、聖域は変わった。何に対してなのか常に警戒して張りつめた空気が満ちて、それが年々強まっているような気がする。
 ・・・昔は幼くて気付いていなかっただけなのかも知れない、とも思う。だが昔、サガやアイオロスが健在で、自分たちが聖衣を受け継いだ頃。少なくとも、常に自分の言動に注意を要するような空気はなかった筈だ。
 ・・・それでもつい最近までは、気になる程ではなかったのだ。聖域に戻る度に妙だと思うようになったのは、ここ1〜2年程の話。
 今までなんとか覆い隠してきた歪みが、少しずつ表面へ噴出してきたような。
「・・・アイオロスやサガの事は、・・・私の二人に対する記憶や印象は、恐らくお前と同じだ。ーーーだが、当時私たちは幼かった」
「・・・そのせいで、見誤っていたと思うか」
「・・・、判らない・・・」
 カミュのその返答に、ミロは薄く笑む。
「・・・『そうだ』とは言わないんだな。・・・それだけでも、俺には価値はある」
 そう言って、ミロは小さく笑った。カミュが自分の言うことを終始否定も肯定もせず、黙って聞いているという事は、同様の印象を持っているという事だと判る。
 今の聖域の状況が、一体何を意味しているのかは判らない。ただ、漫然と今の状況を受け入れているだけでは、いつか何かが破綻する。そんな不安だけが胸の奥に疼くが、今はどうしようもない。
 ・・・一陣の冷たい風が氷原を渡り、うっすらと積もったばかりの粉雪を巻き上げていく。ミロの金の髪とカミュの赤い髪が、同時にあおられて宙に舞う。岩に座ったまま、寒そうに僅かに身をすくめたミロは、風が通りすぎた頃に静かな友人の声を聞いた。
「・・・目に見える物事はあまりに少なく、この状況では、何も判断できない。・・・ただ判るのは、私たちの周囲は薄闇であり、わだかまった闇の中に何かが隠れているかもしれないということ」
 乱れた金髪越しに見た友人は、遠くに見える家の方をじっと見つめている。
「・・・今は、確かにこの手の中にあるものを護りたい。不確かなものを、あてにする気にはならない」
 そう呟いて振り向いたカミュは、静かに微笑を見せた。
 ・・・女神は神殿にいるという。だが、教皇以外その姿を見た者はいない。そんな状況で、女神の力にどれだけ頼れるものかも判らない。今は自分の持つ力で、自分や自分の周りを護るしかない。
 暫く黙した後、ミロはまた薄い笑みを漏らした。
「・・・俺には護るものなんて大してないが、お前にはあのチビどもがいるからな。せいぜい気を付けてやれよ。・・・あいつらが何かおかしな事に巻き込まれたら、たまらない」
 そう言って、ミロは穏やかに笑む。・・・自分たちはともかく、これから育っていく子供たちには出来うる限り明るい場処で、健やかに育って欲しいと、ミロですら思う。心血注いで育てているカミュにしてみたら、切実な願いだろう・・・それはミロにも容易に想像が出来る。
 ミロはまた暫く黙り込み、辺りは風の音ばかりの静寂が落ちる。・・・だがやがて、ミロは気分を入れ替えるように一つ息を吐いて立ち上がり、言った。
「・・・ところでな。俺はもう一つ、話があるんだが」
 カミュの顔を覗き込み、ほぼ同じ高さにある相手の目をじろりと睨みつける。
 突然睨まれて、カミュは少し驚いてミロの青い瞳を見返すが、ミロは構わず不機嫌に言った。
「・・・聖域が居心地が悪いせいか知らんが、お前最近帰らなすぎだ! 全然戻って来ないじゃないか、判ってんのか!?」
 噛みつくように言われて、カミュは思わず呆気にとられて絶句する。
 ・・・確かにこの数ヶ月、聖域に戻っていないのは事実だ。ミロの言うように、どことない不穏な気配に足が遠のいていたのは否めず、夏になってからはミロの方が何度かシベリアに来ていて顔を合わせていたので、つい失念していたというのが正直なところだ。
 カミュは何某か弁明しようと口を開きかける。が、不意にミロの手が風に揺れるカミュの髪を一房掴まえ、無造作に引き寄せた。
 −−−そのまま唇を塞がれ、言いかけた言葉も奪われる。
 ミロがいきなりこんな風に、場処も選ばず触れてくるのは、珍しかった。唇が重なった瞬間、カミュは思わず身を引こうとして、・・・しかしすぐにやめた。触れあった部分から、その鬱屈した苛立ちが伝わってくる気がして。
 −−−暗い空気の満ちる聖域で、女神の加護も感じられずに過ごす中、少しずつ降り積もった、この鬱積。
 苛立って波立つ感情を、宥めるように受け入れて、すっかり風に冷えた唇を温めるように深くなぞる。
 首筋を掌で掴まえて、息継ぎで離れてもまた捉え、何度も繰り返して。・・・宥めて、煽って、そしてまた宥めて。吐息まで絡め取って、声まで奪う。
「・・・ッ、・・・!」
 たまらず引きはがすように身体を離したのは、ミロの方だ。
「〜〜〜〜ッ!! お前なあ・・・ッ!」
 手の甲で唇を押さえながら、珍しく顔を赤くして、カミュの顔をまた睨み付ける。
「・・・むかつく! 性格悪いぞ、お前!」
「知ってるだろう、そんな事」
 口の端で笑んでけろりと言ったカミュの言葉に、何度か口を開け閉めして何か言い返そうとするが、結局言葉は出てこない。暫くしてようやく、ミロは相手を睨み付けたまま、言った。
「・・・当分帰ってこなくていいぞ。ホントむかつく・・・」
「そう言うな。近々戻ろう」
 そう言って可笑しそうに笑ったカミュに、知るか!と口惜しそうに言葉を投げつけて、そのまま踵を返す。
「−−−帰る! 言っておくが、俺も当分こっちには来れないからな!」
「・・・何故だ?」
 聞き返すと、ミロは一拍おいて、肩越しに僅かに振り向いて言った。
「・・・聖域を離れるのを、教皇やその周辺がいい顔をしない。特に俺は、頻繁に無許可でここに出入りしてるからな、しばらく大人しくしていないと、目をつけられそうだ」
「・・・そうか」
 静かに答えて、カミュはかすかに微笑する。
「・・・済まなかった。ほとぼりが冷めたら、また来てくれ。氷河たちが寂しがる」
 その言葉に、ミロはじろりとまた一瞥してくる。
「・・・狡い奴。都合のいいことばかり言うな」
「だから、済まない、と言っている。・・・また聖域でな」
 ミロは数瞬じっと肩越しの視線を投げて寄越したが、やがて、判った、とだけ答えてまた背を向けた。ふわり、とその背中が赤金色の小宇宙で滲んで、そのままその場から姿を消した。








 −−−無人になった雪原に一人佇んで、カミュは灰白色の空と、そこからちらつく細かな雪の結晶を見上げる。凍り付くような風が、その赤く長い髪を絶え間なく煽っていく。
 積もったばかりの薄い雪は、容易に風に舞い上がり、降る雪と混じり合って雪原に舞う。視界が閉ざされるこの感覚は、今、ミロが聖域で感じている閉塞感と似ているだろうかと考える。
 ・・・見えない真実。形のない不安。それらの根源は、一体何処にあるのだろう。
 カミュは、この何年も密かに抱いている疑問があった。聖域の外に在り、一歩離れた処で見守ってきたからこそ浮かんだものか−−−ミロにすら、口にしなかったその疑問。
 アテナ神殿で女神は眠っておられると言う。聖戦の勃発するその日まで、決して目覚めることはないと、そう教皇は説いている。  −−−だが、眠っているとはいえ確かに聖域には女神がおわすというのに。
 何故、女神がおられる聖域で、不穏な気配が蔓延したままなのか。女神がいれば、その聖なる小宇宙で聖域は護られる筈なのに。
  ・・・カミュは、一人かすかにため息をつく。
 もしこの疑念を肯定するような事態が生じるなら、それは即ち聖域の根幹を揺るがすものになるだろう。
 疑念が、ただの疑念で済めばよいと思う。ミロとて今はまだ、女神の存在そのものを疑ってはいない。ただ何かがおかしいと、女神以外の何らかの意志が介入し、あるべき姿を歪めているのを感じ取っているだけだ。だからミロの女神に対する忠誠にも、何の曇りもない筈。
 ・・・だが、それに比して自分はどうだろうと、カミュは暗い気分で己を顧みる。
 幼い日、ミロと語った事を今になって思い出す。−−−女神が真に自分にとって護るべきものだと確信できたなら、自分は本当の意味で守護者となって、自分を差し出すことも出来るだろう、と。
 だが、実を言うならカミュは、未だにその確信を完全には得られていない。姿も見えず、小宇宙すら実感できない女神は『確かな存在』とはとても言い難く、そんな不確かなものの為に自分を投げ出す気には毛頭なれなかった。この身、この力は真の女神の為にこそあり、偽り無くいつこの命を差し出してもよいという覚悟はあったし、それこそが真の望みでもある。だが、そうするには女神の存在に対する絶対の確信が必要だ。
 その確信さえあれば、何も迷わず、必ず己のやるべき責務を全うできる自信はあるのに。導きの光は未だ見つけられず、闇ばかりが濃くなっていく気配がする。
 −−−女神の導きを見つけられない以上、今確かにこの手の内にある大切なものを護りたかった。本来、女神以外を護れる立場ではないのは判っているけれど、今はそれしか己の道を定められない。
 氷河やアイザックが、己の力で進める程に成長するまで、決して誰にもその魂を傷つけられないように。彼らの進む道が、どうか少しでも明るくあるように。・・・その為に自分が出来ることがあるのなら、それこそ命を捨てても良いとすら思う自分が居る。
 ・・・子供たちを護ってやれとミロは言っていたけれど、まさかミロも、自分が女神以外のものの為に命を差し出す覚悟だなどとは、思ってもいないだろう。こんな自分の胸中をミロが知ったら、どう思うだろう。・・・怒るか、呆れるか。それとも笑うか。
 ・・・恐らく何時の日か、全ての真実は顕かになる時は来るだろう。だがそれが、どんな形になるかは判らない。その日を、それぞれが一体どんな立場で迎えるのか。・・・自分には自分の道を見定める義務があるように、ミロにはミロ自身が道を見極め、進む先を選ぶ義務と権利があると信じる。
 −−−どうかその道が、何処までもたがわず同じであるように。いつか必ず、正しい導きの光の元で、本来の責務を全うできるように。それをずっと自分は願っているけれど。
 −−−だが今は、全ては未だ闇の中にある。







「・・・先生? なかなか戻られないので、どうしたのかと思って」
 ・・・霞のようにちらつく粉雪は、少しずつその濃さを増している。その向こうから、金の髪の子供が白い息を弾ませながらやって来た。
 雪原に一人で佇む師の姿を認め、氷河はきょろりと辺りを見回す。
「ミロは? 聖域に帰ったんですか」
「・・・ああ。寒いのは苦手のようだ、相変わらず」
 カミュの答えに、そうですか、と氷河は少し残念そうだ。
「アイザックが、温かいものを作ってるんです。食べていって欲しかったけど」
「そうか」
 短く答えて氷河の金髪に手をおくと、氷河はにっこりと笑う。
「でも、いいです。きっとまた来てくれるでしょう。・・・先生、ミロが俺たちのことスジがいいって、褒めてくれたんですよ」
 嬉しそうに言う氷河に、そうか、とまた答えて、金の髪を撫でる。
 −−−手の中の、大事なもの。彼らがこの先何にも挫けることなく、己の道を進んでいくだけの強さを与えてやりたい・・・迷わずに進んでいけるだけの力を。それが出来れば、自分にとってもどんなに大きな喜びになるだろう。
 微笑を向けるカミュの手をとって、氷河は笑う。
「先生、戻りましょう。アイザックが待っていますから」
 そう言ってカミュの手を引く氷河と共に、雪の中を歩きだす。


 ・・・遠く遙かな先は見通すことの叶わない、白い薄闇の中へ。


















 ・・・これは書くのにえっらい時間かかりました・・・(^^;)。
 十二宮編で、わがしがあまりにも女神の存在をアウトオブ眼中にしてて、氷河しか目に入ってないので、一応そのフォロー(!?)のつもり・・・。要するに、わがしは女神が神殿にいないのではと疑ってはいて、でもそれを確かめる術もなく、判らないのならそれは不確かなものであり、不確かなものはどうでもいい、と、そーゆー思考回路・・・(^^;)。それより目の前で、心血注いで育てた弟子が死ぬかもしれない(殺されるくらいなら自分の手で・・・(笑))とゆーことの方が余程重要。女神の件については成り行き任せで、あまり積極的に真相を究明しようって気はないよね。真の女神なら誰にでも判るくらいの顕かな聖性を示してみせろ、とゆームウ様的な思考もありそうだ。悪は滅び善は残るという天の采配を味方につけられることこそが、女神の証。・・・と思われているらしい・・・・頑張れ沙織(笑)。

 わがしにとって、ミロはあくまで対等な立場であり、併存し理解しあえる者。自分の命をどのように遣うのか、とか、そういう事について、お互い口出し出来る立場にはない。それくらいには、黄金は一人一人が孤高だと思う。・・・とゆーか、聖闘士の間には、そういう自らの意志を何より尊重すべきであるとゆーポリシーがあるよね・・・。
 それに比べて、子供たちは自分に属する、自分が護るべき者、という感覚。言ってしまえば所有物、ってことかもしれない(笑)。だから氷固めしたりするんだよね(^^;)。

ちなみに、この話のミロsideがコチラ■(100題『夜明け』)


モドル