『白い闇』ミロSide.





2.夜明け







 −−−肌にまとわりつくような昏い気配で、ミロは無理矢理眠りの中から引っ張り戻された。
 はたと眼を開くと、天蠍宮の見慣れた寝室の天井が、静かに闇に沈んでいる。
 ・・・嫌な空気。息苦しい程の鬱陶しい感覚が、全身を包んでいた。
「・・・っ、・・・またか・・・」
 肺の中の空気を一気に吐き出すように大きく息をついて、不快げに寝返りをうつ。だが身体が強ばっていて、強引に身じろくと関節がきしむような感じがした。真夏の暑気のせいばかりとは言えない汗が、全身をうっすらと覆っていて、ひどく気持ちが悪い。
 ミロは何度かしきりに寝返りをうったが身の置き所がなく、やがて仕方なしに寝台に半身起こして、また重い息を吐いた。汗で額に張り付いた金髪を、無造作にかきあげる。
 ・・・何か、やたら不快な闇の気配を感じる。明確な敵意ではない、ただ霞のように微量に空気に混じって、聖域全体を濁らせているような感じ。それが今も身体を押し包んで、眼も耳も塞がれるような気がする。
 ・・・最近、こういう事がよくあるのだ。最初は賊でも侵入したのではと色めき立ったが、しかしそうではなく・・・あり得ないことに、これは聖域の外からのものではなく、中からのものなのだ。どこから発しているのかはハッキリしない。だがどちらにせよ、この女神の膝元で一体どうしたことなのかと、不審ばかりが募る。
 他の黄金・・・と言っても、この聖域にいつもいるのは自分と獅子座、乙女座くらいなので他の二人、と言った方が早いが、その二人もこの気配には気付いているらしい。
 だが、自分も彼らも、あまりこの事は口にしない。
 何故なら、この神域でそんな昏い濁りを感じることなど、本来在り得ない。在り得ない事を在ると主張するには、この気配はあまりに漠然としていたし、そんな事を迂闊に口にしたら、教皇や女神に対する翻意や反感を疑われる可能性すらある。教皇が何も言わない以上、軽々しく口に出来ることではない。
 ・・・一体、いつからこんな状態になってしまったのかと、最近ミロは何度も考えていた。闇の気配もさることながら、今の聖域は己の言動に注意しないと、思わぬ言葉が自らに跳ね返ってくる、そんな張りつめた空気が常にある。
 −−−身体にまとわりつく闇の中で、ミロは両手で顔を覆う。
 ・・・少なくとも、10年ほど前自分たちが聖域にやってきて間もない頃・・・謀反人として葬られたアイオロスや、行方不明になったサガが健在だった頃には、こんな空気はなかった筈だ。3年前カミュがシベリアに発った頃、今思えば既に多少嫌な気配があったような気はするが・・・しかし、それも今ほど酷くは、決してなかった。
「−−−・・・3年か・・・」
 呟いて、カミュ、という名を胸の内で繰り返す。
 あの水瓶座の聖闘士が聖域から出て、もうそんなに経つのかと今更のように思う。月に一度くらいは一応戻って来るが、しかし何故かここ数ヶ月、それも足が遠のいている。
 ・・・こんな気持ちの悪い夜には、常よりも尚はっきりと、逢いたい、と思う。
 カミュがもしここにいたら、あの冷たく綺麗な気配が今この手の中にあれば。あれの持つ清冽な小宇宙ならば、この温くまとわる濁りも消し去ってくれるのではないかと、そう思わずには、いられない。
 −−−本当は自分はこんな暗いところで、周囲で何が起こっているのかもよく判らない場処で、独りで溜息などついていたくはない。
 声を聞いて躰に触れて、あの静かで澄んだ気配を確かめたいのに。なのに何故、あいつは今ここにいないのか。何故、自分は独りでこんな処にいるのか。何故、聖域はこんなおかしな空気に満ちているのか。・・・こういう時はもう何もかも全てが不条理に思えて、苛立ちのせいで目が眩みそうになる。
 ・・・だが何より一番苛立つのは、こんな繰り言を思う今の自分自身だ。
 空気に含まれた濁りに、己の中にまで浸食されているのではと思う。毎日少しずつ降り積もり沈殿し、本来の自分が歪められて。
 −−−両手で顔を覆ったまま、くそ、と小さく呻く。
 繰り言と判っても尚、それでもあれに居て欲しい。あれが今の自分を見たら、きっと何を弱気なと一言で済ませ、いつもの呆れたような顔で笑うか怒るかしてくれるだろうに。
 ああでも、こんな風にあれを逃げ場に使う自分こそが、やはり濁っている。都合のいいようにあれを勝手に作り上げている。・・・だけどあれ自身が傍にいたなら、自分はあれを勝手に捏造する必要もないのに。
 ・・・ぐるぐると同じ思考のループに填り込みそうになるのを、ミロは頭を振って何とか遮る。・・・らしくない。本当に、こんな自分はらしくないではないか。
 室内の籠もったような空気に耐えられず、ミロは上掛けを跳ね上げ寝台を出て、天蠍宮の外回廊への扉を開く。
 裸足のまま、ひやりとした石畳を踏んで屋根の外まで出ると、少し薄曇りの夜空が拓けた。星はあまり見えなかったが、それでも少しだけ、気分が落ち着く。
 ・・・はあ、と一つ息を吐いて、ミロは頭の中を整頓しようと努力する。
 −−−日が昇ったら、今日は時間を見てシベリアに行ってみよう。顔を見ればきっと少しは落ち着くし、チビどももいるからきっと気晴らしになる。何より、聖域では口にできないようなことをカミュに聞いてみることも出来るだろう(聖域を覆うこの嫌な空気を、カミュは気付いているのだろうか?)。
 それに最近ちっとも帰って来ない事にも、一言ぐらいは文句をたれてこよう。繰り言ではなく、いつもの調子で。心配させたり軽蔑されたりしないよう。
 ・・・そこまで考え、ミロは夜風に髪を揺らしながら、静かに瞳を閉じて、思う。
 カミュにはカミュの領分が、自分には自分の領分がある。己の道は、己にしか拓けない。それを見極めるのは自分自身の責務であり、今も自分はそれを忘れてはいない。
 ・・・でもそれでも、生きていく為に。日々を、こんな夜を越えていく為に。目的を失わず、全ての濁りを晴らす力を得る為に。
 今、あの清冽な空気を想う事は、許される事だと信じたい。・・・許しを与えるのは、女神か、カミュか、それとも自分自身か、それすらもはっきりしないけれど。
 ・・・瞳を開いて夜空を見上げ、ふと急に可笑しくなって、苦笑する。
 こんな風に自分があれを思っている時に、あれは一体何をしているのだろう。きっと俺のことなんかちっとも考えもせず、弟子の事で頭をいっぱいにしているに違いないのだ。俺のことを馬鹿だ馬鹿だと言うけれど、お前なんか立派な弟子馬鹿だろうと思う。
「・・・馬鹿はお前だ。少しは俺の気にもなれ」
 夜空の向こうにいるだろう大事な友人に、間違っても届かないよう、とても小さな声で愚痴る。
 闇に潜む濁りは、相変わらずあるのだけれど。それでも、そんな愚痴を口走るだけでも、少しは救われる気がする。
 ・・・見上げた東の空には、薄い光が滲み始めている。・・・もう少し辛抱すれば、夜が明ける。夜が明けれさえすれば、昏い濁りの気配もきっと薄らぐ。
 −−−明けない夜は決してない。そんな事を今更のように思って、ミロはそのまま朝日があたりを染め上げるまで、その場でじっと待つ。









 ・・・やがて聖域に差し込んだ透明な光と、清廉とした風。
 それは、ほんの少しだけ、あれの気配に似ている気がして。
 −−−ミロはその青の瞳を細め、闇を溶かす光を、言葉もなく見守っていた。





『白い闇』のミロサイドです。17歳。
独白だけの文っつうのは、どーもうっといですなあ・・・。しょぼん。





モドル