95. さあいこう 


2525hitキリリクです。
導く者』の続きのような形になっています。
もしよろしければ、そちらからどうぞ。













 ――― その日。
 教皇が定期的に招集する聖闘士達の集会に、蠍座は姿を現さなかった。
 それ自体は決して珍しいことでは無く・・・寧ろいつもの事だと、誰もが思うような類のことではあった。
 6歳という幼さで『彼等』が聖域に迎えられてから、およそ半年。まだ正式に聖衣を継いではいなかったが、彼等は教皇の承認のもと、既にそれぞれの聖宮に入っていた。幼齢ながら他の聖闘士より上位の扱いを受け、それに伴い様々な義務を要求される。だがそんな縛りに対し、殊更に奔放さが目立ったのが、蠍座継承者の子供だった。意に染まぬ事に興味を示す事は極めて稀で、退屈な集会などは大抵サボタージュを決め込み、どこぞかへとふらりと姿を消してしまう。
 そんないつもの出来事が、いつもと違ってしまったのは、集会が解散した、直後。
 聖域の片隅で、いつもの会話がいつも通りに展開しなかった事に、それは端を発した。







「・・・此処に、いたのか」
 十二宮のある岩山の外れ。聖域を見下ろす小高い崖際に、風がひっきりなしに吹きつけている。
 真っ青な広い空を臨むその崖っぷちに、宙に両足を投げ出すようしてに座り込む小さな後ろ姿。その背後からかけられた声に、子供が振り返った。
 青空を背に、風に煽られた金髪が眩しく煽られる。
 声の主を見て、金髪の子供・・・蠍座のミロは、乱れた髪越しに嬉しそうに笑う。
「カミュ」
「・・・また此処にいたのか、ミロ」
 崖際を囲む岩場の上から、溜息混じりの声が落ちる。見上げたミロの視線の先には、ミロとは好対照の紅い髪が、風にひるがえっていた。
 十二宮の奥の奥、道なき道、岩場につぐ岩場を越えねば辿り着かないこの場処は、ミロの気に入りの隠れ場処のひとつだ。足場が宙に張り出すように突き出た崖際は、聖域を一望し、広い空と地中海の煌めく水平線を臨むことが出来る。そんな視界の広さをミロは気に入って、何かというと此処に来る。
 ・・・そしてこの場処を知っているのはミロと、ミロを追ってその姿を探すことの多い水瓶座だけだ。
 岩の上から身軽に飛び降りたカミュは、崖っぷちで足をぶらぶらさせている蠍座の傍までやって来ると、鮮やかな紅の瞳で睨む。
「・・・また招集を無視したな。教皇宮に来ずに、こんな処で」
「うん」
 悪びれた様子もなく、ミロはけろりと笑う。
「だって、つまらないだろう。あんな集会より、鍛錬でもしている方がずっといい。お前が此処にいるってことは集会終わったんだろう、一緒に闘技場に行かないか」
「ミロ」
 咎める声に、ミロは少し首を傾げて友人を見上げる。
「・・・何?」
「他の事はまだしも、教皇の招集を無視しては駄目だ。余りにも心証が悪いし、そもそも教皇の命に従わなかったら、私たちが此処にいる意味がない」
「何だよ、今日に限って」
 くすりと笑って、ミロは自分をじっと見つめる紅い瞳を、可笑しそうに見返す。
「俺が集会をサボるのなんて、今に始まった事じゃないだろ」
「今に始まった事じゃないから、言っている。真面目に聞け」
 ぺたんとミロの傍らに座り込んだカミュは、まっすぐに空色の瞳を見て、至極真面目な面もちで言い含めるように言う。
「・・・あまり気儘にしてばかりいては駄目だ、ミロ。今はまだ黙認されているけれど、続けていればそのうち要らぬ反感を買う」
「反感」
 ミロは、また面白そうに笑う。
「そんなモノ、いくらでも買ってやるけど。どうでもいいよ、本当にやらなきゃいけない事はやっているつもりだし。集会なんて行くだけ無駄だ、つまらないだけで」
「つまるつまらないで勝手に決めていいことではない。大体、教皇が招集するのだから、立派に『やらなきゃいけない事』の一つだろう。・・・それに」
 珍しくカミュは僅かに口ごもり、数瞬の間の後、ぽつりと言葉をついだ。
「・・・それに、時には、大切な話もあるし」
「そうか? 神官の話なんて、同じ事の繰り返しばかりじゃないか。耳にタコが出来そうだ」
 “女神の御為に、身命を賭して仕えよ”、そんな決まり文句を、ミロは神官長の口調を真似て諳んじ、くすくすと笑う。
 ・・・が、友人の眼が非難を込めて自分を睨んでいるのに気づくと、ミロは唐突に興が冷めたように表情を消し、ころり、と地面に転がった。
 髪に砂がつくのも構わず、つまらなそうに遠い青空に視線を投げやったミロの気のない素振りに、カミュは何度目かの溜息をついた。
「・・・ミロ。真面目に聞けと言っているのに」
「お前こそ、何なんだ今日は。いやにうるさい」
 寝っ転がったまま、傍らのカミュに視線を移して、ミロは眉根を寄せて言い返す。
「無駄なこと嫌いだし、退屈なことはもっと嫌いだ。どうでもいいような決まり事を、お前が何でそんなに守ろうとするのか、俺にはちっとも判らない」
「・・・どうでもいい事なら、私だって言わない」
 低く言ったカミュの声に、ひやりとしたものが混じる。
 その冷たさが、余計にミロをムキにさせた。負けず嫌いのミロは、勢いづいて言い返す。
「俺にとってはどうでもいい事だし、お前にとったってその筈だろ」
「・・・何?」
「反感を買おうが独房に放り込まれようが、俺のことなんだから。お前には関係ない」
 ――― その、一瞬。
 す、と周囲の気温が一気に下がったような気がした。
 瞬間の冷気は、しかし瞬く間に風に攫われ、確かめる間も無く霧散する。いやに深々とした沈黙が、二人の子供の間を風と一緒に吹き抜けていく。
 ・・・さすがにちょっとマズかったかな、とやや気まずい思いで、ミロはカミュを見やった。カミュの顔はうつむき加減で、その表情は煽られる髪に隠れ、見ることは出来ない。
 ・・・だがその身に纏う気配は、不気味に静まりかえっている。
 ―――大抵の場合。
 この次に来るのは、本格的な叱責か、無言の拳か、或いは氷塊が飛んでくるか。そのどれかだ。
 ミロは僅かに身構えながら、しかしそれでも、かなり暢気に構えていた。生真面目な友達の、生真面目な言動。自分の気儘さを叱りとばす水瓶座のそんな真摯さが好きだったし、いつも押し殺したように静かな紅い瞳が、何にせよ感情に揺れるのを見るのも、実は楽しい。
 ・・・だから殊更、気儘なことを言ってみたりもするのだけれど。
 ――― そんな事を考えているうち、つとカミュが顔を上げた。
 怒っているんだろうな、と思っていたその表情は、しかし期待していた感情の揺らぎは微塵も無く、静かに冷たいままだった。
「・・・カミュ?」
「―――・・・確かに、私には関係がないな」
「・・・え?」
「要らない口を出して済まなかった。好きにしてくれ」
「ちょ・・・おい、カミュ!?」
 呼び止めるミロの声など聞こえないように、カミュはそのまま踵を返す。・・・その身には冷えた気配を、纏ったまま。
 そのまま遠ざかる腕をつかまえようとしたミロの手は、空しく宙を掴んだ。ちらりと寄越したカミュの一瞥は、幼さとは無縁の眼差しで、冷たさと硬さを孕んでいる。その視線に一瞬動けなくなったミロを置いて、カミュはさっさとその場を立ち去った。
 ――― 岩場の向こうに紅い髪が消えるのを、ミロは呆然と見送る。
 ・・・何故、いつものように叱りとばさないんだ。突然の豹変に、元よりあまり複雑な事象を処理するに不得手な頭が、混乱する。
 確かに不用意な言葉だった。だが、あの程度の軽口、今までだって何度もあったのだ。それでもいつもは気にした風もなく、傍にいてくれた。自分がどんな馬鹿げた勝手を言ったとしても、無茶を言ったとしても。
 なのに、今日に限って五月蠅く言い募ったかと思えば、あんな眼をして。
 ――― よく知っている眼だった。出逢ったばかりの頃、よく見た。己の中の何もかもを封じ込め、外界の何もかもを拒んで跳ね返す、鏡面みたいな眼。ただ目の前の事物を、紅く映しこむばかりで。

 風の中、ぽつねんとその場に取り残されたミロは、言葉もなくカミュの去って行った岩場を見つめるしかなかった。







    ‡     ‡     ‡







 ――― その後数日、ミロは不快にザワついた気分のまま過ごした。
 あれ以来、カミュは徹底してミロの存在を無視した。視界に入る距離にいても、決して視線を寄越すこともなく、ましてや言葉をかけることなど、一切無かった。いっそ見事なまでにミロの存在を黙殺し、そこに居ないかのように振る舞う。宝瓶宮から下へ降りる際、カミュはどうしたって天蠍宮を通るが、平素なら必ず声をかけていた習慣も無くなった。気配ばかりがこれ見よがしに自宮を素通りしていくのが、余計に癪に触った。
 苛立ち紛れに癇癪をおこして、ミロは宮に出入りする側仕えの者たちも天蠍宮から追い出し、しかし苛々とたった一人で自宮に居るのも嫌になり、日の出から日の入りまで、常にも増して熱心に闘技場に入り浸る。そんな蠍座に、友人の獅子座がさすがに不審げに問いかけてきたのは、例の一件から五日後のことだった。







「・・・お前ら、ケンカでもしたのか」
 お互い砂まみれ擦り傷打ち身だらけになるまで組み手をやって、息を切らして闘技場の地べたに転がった、獅子座と蠍座の子供。ようやく呼吸が整った頃、アイオリアが言った。
 時刻はもう、夕暮れ。澄んだ聖域の空は、東側がすでに藍色に染まり始めている。
「いつもカミュとツルんでた癖に、ここ何日かちっとも一緒にいないじゃないか。なんか空気が険悪だぞ、お前ら」
「・・・・・・」
 まだ少し息を弾ませたまま、ミロは憮然と黙り込む。星が微かに瞬き始めた空を無言で睨み上げるミロに、アイオリアは笑う。
「図星か?どうせお前がつまんない事で、カミュを怒らせたんだろう」
「うるさい」
 ぎ、と睨み付けてくる大きな青い瞳に、しかしアイオリアは少しも怯まない。出逢って数ヶ月、少々短気な蠍座の気性は、もう充分知っている。
 地べたに腹這いに寝っ転がったまま、砂地に頬杖をついて、アイオリアはくすくす笑う。
「図星指されて怒るなんて、男らしくないぞ、ミロ」
「うるさいって言ってる。俺じゃなくて、カミュの方がつまんない事で怒ってるだけだ」
「そうなのか?あいつがあんな風に怒るなんて、相当って気がするけどな」
 水瓶座の徹底冷戦体勢を揶揄して言うアイオリアに、ミロは眉尻を上げた。
「そんなこと無いって!あいつはああ見えて、意外と短気なんだから!」
 へえ、とアイオリアは少し意外そうに、藍色の眼を見開く。
「そんな風に思ったこと、俺はないぞ」
「本当だって!短気だし気分屋だし、その癖、妙にクソ真面目だし!」
「ふうん」
 ミロがムキになって言い募る様に、アイオリアは可笑しそうに笑う。
「さすがに良く知ってるじゃないか。伊達にツルんでないな」
「・・・、そんなこと」
 ぷいとまた宵の空に眼をやって、ミロは不機嫌に呟く。
「・・・そんなこと無い。あいつが何考えてるかなんて、俺にはちっとも判らない」
「そうか?」
 アイオリアはまた笑い、言った。
「どっちにしたって、カミュがあんな調子じゃお前が折れるしかない気がするけど。ハタで見ていて気分が悪いから、早く仲直りしてくれよ、・・・時間もあまり無いし」
「・・・時間?」
 きょとんと碧眼を見開いて、ミロは夕空からアイオリアへ視線を戻した。
「・・・何の事だ、時間って?」
 アイオリアもまた、ぱちくりと眼をしばたく。
「何、知らないのかお前?この前の集会で・・・って、そういやお前、またサボってたっけ・・・」
 はあ、と溜息をついてアイオリアは説明する。
「この前の集会で、俺たち黄金の年下連中幾人か、修行地に出るように教皇さまから勅が下ったんだ。・・・ホントに何も聞いてないのか、従者が伝えたろう」
「追い出したんだ、うるさいから」
 馬鹿かお前、と呆れたアイオリアに、ミロは躰を起こして、急くように先を促す。
「それで?誰に、何処に行けって?」
「ええと・・・俺とムウとシャカは、聖域に居残りなんだ。ムウは教皇様が、俺は兄さんが師匠だからさ。シャカは、修行地で行うような修行はもう必要無いとか言われて。そんでアルデバランはブラジル、お前は確かミロス島・・・カミュはシベリアに行けって。出立は1〜2週間のうちに、準備が整い次第と仰ってた」
「・・・シベリア」
 想像もつかない遠い北の地名を呟いて、ふとミロは思い出す。
 ・・・あの時、カミュが言ったのだ。
 集会に真面目に出ろ、時には『大事な話』もあるのだから、と・・・―――
「・・・ミロ?」
 アイオリアは、何やら黙り込んでしまったミロの顔を覗き込むと、突然ミロはがばりと顔を上げた。
「――― それ、いつまで!?」
「へ!?」
「だから、修行に出る期間!いつまでだって!?」
 身を乗り出すミロに、アイオリアは気圧されたように僅かにのけぞって、言った。
「え・・・えっと、・・・修行が終わるまで、だろ。修行が終わればすぐにでも聖域に帰れるし、終わらなければいつまでも帰れないって・・・そう聞いた」
 ・・・ミロは思わず、舌打ちを洩らす。あの時は軽く聞き流してしまっていたが、成程こういう事かと今更のように合点がいった。
 ――― 傍にいると、交わした大事な約束。なのにもうすぐ逢えなくなる。次にはいつ逢えるのかも、判らない。
 カミュがやたら五月蠅く言い募っていたのも、些細な一言で思い切りへそを曲げたのも、判る気がする。
 ・・・だが。
 結局、カミュ自身は何も言わなかったのだ。確かに集会に行かず、大事な話とやらを聞こうともしなかった自分も悪いかも知れないが、しかし何一つ説明もせずに黙って怒っているなんて、そんなのまるきり馬鹿みたいだし、何より卑怯ではないか。このまま無言で自分に何も言わず、さっさと遠い北の地に行ってしまうつもりなのかあいつは、・・・と思った途端、俄に怒りが甦った。
 ――― 猛烈に腹が立ってきたミロは、がばりと地べたから起き上がると、アイオリアに目もくれず、そのまま一目散に十二宮に向かって夕暮れの中、駆けだす。
 突然に砂を蹴散らして走り去るミロの後ろ姿を、アイオリアは唖然と見送る。
 だがやがてアイオリア小さく笑いを漏らし、宵闇に溶けていく小さな背中を眺めやった。









 石段を脇目もふらずに駆け上がったミロは、やがて自分の天蠍宮も通り過ぎ、11番目の宮に向かった。
 宝瓶宮に近づくと、しかしそこに目的の気配が無いことにミロは唐突に気づき、ぴたりと足を止める。
 辺りはもうすっかり夜闇で、鍛錬に出ているにしても、とっくに自宮に戻っている頃合いだ。それに幼い宮主を擁する聖宮では、(従者をしめ出している自分の処は別にして)夕食の支度をする従者が宮内に入っている時刻である。
 なのにその気配もなく、宝瓶宮はしんとして暗いばかりだ。
 ――― まさか、と。ミロはその暗闇に唖然とする。
 教皇は、1〜2週間のうちに修行地へ出立せよと勅を下したと、アイオリアは言った。
 だがまさかこんなに早く、自分の知らない間に北へ発ってしまったなんてこと、あるだろうか。ミロは慌てて、所在なく辺りを見回してみる。
 やはり宝瓶宮に人気はなく、小さな灯り一つも見えない。
 ――― 今日の昼間、確かにカミュの姿を見た。勿論、例の如く見事な迄に無視されたが、普段通りの時間に闘技場の周辺に姿を現していたし、本人にもその周囲にも変わった様子は見えなかった。アイオリアだって、もしカミュが今日発ったなら、そう言ったろう。
 ミロは焦る胸を抑えて、諸々の状況を思い、考え直す。・・・カミュがもう発ってしまった訳がない。気まぐれな処がある奴だから、そこらでフラフラしてるだけだろう。
 本当に何も言わないまま、行ってしまう訳がない。
 ・・・ふと思い立ち、ミロは踵を返す。
 暗がりの中で駆ける足は石段を逸れ、周囲の岩場を身軽に越えて、ミロは闇の中に姿を消した。









 ――― 聖域に来て、間もない頃。
 ひとつ、約束をした。
 守る気のない約束事を口にしたことは、それまで何度もあったけれど(何しろ大人は子供に約束をさせるのが好きだ)、でも守るためだけの約束を、嘘偽り無く誰かと交わしたのは、あれが初めてだった。
 ――― 傍にいるから、と。
 もし此処に留まる意味が見出せなかったら、どんな場処へでもきっと共に行くから。
 だから今はこの場処で、自分の傍に、いて欲しい。
 ・・・そんな思いを込めた約束を、したのだ。光のような笑顔を、曇らせたくなくて。
 でもそれは、結局は自分の為だった。あの光の傍に、自分がずっと居たかっただけ。
 ・・・一番傍で、ずっと見ていたかっただけだったのだ。


 ――― 降るような星空の下で、カミュはかすかに溜息を落とした。
 十二宮のある岩山の片隅。数日前に、ミロと別れた場処だ。いつもミロがしてるように崖っぷちに腰を下ろし、宙に足を投げ出してぼんやりと夜空を見上げていた。
 流れる天の川。輝く星々は、うるさいくらいにさんざめく。
 この同じ場処で、約束をしたのだ。あの夜も、こんな風に星が零れるように光っていたのを、憶えている。
 疑う必要の無い言葉もあるのだと、あの約束をした時に、初めて思った。交わした言葉の真摯さは、今でも少しも変わらずに胸に生きている。
 ・・・だけれども、あのような約束にこだわるのもまた無意味な事なのだと、カミュは思う。自分たちのどんな願いも、容易に他の何かに差し替えられてしまう。・・・例えば、教皇の言葉ひとつで居場所を変えらてしまうように。
 修行地で一体どれ程の時間をそこで費やすのかも判らない。もし聖衣を継ぐだけの力をそこで得られなかったら、聖域に戻ることも叶わず、放擲されるだろう。そんな不安も、胸を灼く。
 ――― 必ず傍にいる、と伝えたその言葉に偽りは無かったし、今でもそれは同じだ。その約束を抱いたまま、己一つも自由にならない自分たちにとって、あの日の言葉の意味は一体何処に行ってしまうのだろう。
 約束を、ミロも忘れている訳ではないのだろう。だが生来から気儘で気性の激しい蠍座は、いつだってあんな調子でこちらの思惑や心持ちなど、眼中にないような素振りだ。
 ・・・自分とて、ミロとはまた違った意味で勝手気儘な気質なのは重々自覚しているから、偉そうな事も言えないが。今だって随分な態度をとっていると思うし、今更ミロの人となりに怒りを憶えた処で、それは理不尽な感情でしかない。
 ただ色々と持て余してしまって、どうすれば良いのか、よく判らない。
 ・・・でもきっと本当は、酷く単純な。
 多分、たったひとつの・・・―――

「・・・カミュ!!」
 ――― 一閃の、光。
 そんな錯覚を起こさせるよく通る声が、闇を突き抜ける。
 弾かれたように顧みたその先には、僅かな星明かりにも輝く、金の髪。
 夜風にひらめくそれが、射るように真っ直ぐな青い瞳を、縁取っている。
「ミ・・・」
 カミュが思わず後じさるように躰をずらした瞬間。崖の縁にかけていた手が、がくんと落ちた。
 体勢を立て直す間も無くそのままずり落ち、躰ごと宙に浮きかける。
「・・・ッ!!」
「わ・・・ばっか・・・!!」
 文字通り一跳びで岩場から崖っぷちまで駆けつけたミロの手が、寸手の処でカミュの腕を掴んだ。
 ふわり、と瞬間にミロの躰から黄金の小宇宙が薄く放たれ、その力が容易にカミュの躰を崖の上まで引っ張り戻した。
 引き戻した反動で、どさりと二人して崖際に倒れ込む。
「・・・び・・・っくりしたあ・・・ッ!探し当てたと思ったら、いきなり落っこちるんだもんな。馬鹿じゃないのお前」
 はあ、と胸に手を当てて息をつくミロを、カミュは睨み付ける。
「・・・お前に言われたくない」
「何言ってんだ、俺がいなかったら落っこちてた癖に!」
「怪我をするような落ち方などしない!それにそもそも、お前がいきなり喚くからだろう!」
「名前呼んだだけだろ!あのくらいでビクつくのは、お前に後ろ暗いトコがあるからだ!」
「決めつけるな!」
「ホントのことだろ!図星指されて怒るな!!」
「怒ってない!」
 ひとしきり怒鳴りあい、しばし無言で睨み合う。
 ・・・が、数秒後、ミロは自分の癖ッ毛をがりがりと乱雑にかき回した。
「あー違うって!そうじゃなくて・・・―――!」
 苛々と言って、俯き加減で黙り込む。そして数秒の間。
 ・・・不意にミロは、何かに気づいたように顔を上げた。カミュの眼を真っ直ぐに見て、にやと笑う。
「――― お前。やっと、口をきいたな」
 はた、とカミュが気づいた時には、もう遅い。無視を決め込んでいたのも水の泡、満足げに笑むミロに何も言い返せず、仕方なくまた無言でミロを睨み付ける。
 その視線に、ミロはまた笑う。
「それに俺のこと、ちゃんと見てる。お前さ、怒るのはいいけど無視すんなよ。ヘコむから」
「・・・―――」
 あっけらかんとしたその言い様に、カミュはただ呆れるばかりだ。
 ――― 少しも躊躇わずに差し出される、言葉。いつでも変わらないその率直さに、今更のように困惑させられる。
 ・・・何て、自分と違うのだろう。
 こんなにも違う者と、少しでも解り合えると・・・ずっと同じ道を行けると思ったのは、間違いなのかも知れない。ただ、自分がそう思いたかっただけで―――。
 カミュの胸中などお構いなしに、ミロは正面からカミュの眼を見据える。
「お前さ、言いたいことがあるなら、ハッキリ言えよ。言わなきゃ判らないだろ」
 ――― カミュは思わず、嘆息する。
「・・・少しは察するとか・・・出来ないのか、お前」
「無理」
 きっぱりと言い切るミロに、カミュはまたしても唖然とする。
「・・・即答か?」
「出来るわけないだろ!お前の考えてることなんか、俺はちっとも判らないんだからな!」
 やたらと自信満々に胸を張って言い放つミロに、カミュは言葉もなく、がっくりと脱力する。
「・・・自慢するような事か、それ・・・」
「別に自慢してる訳じゃない。でもしょーがないだろ、判らないモンは」
 少しだけ躰をずらして、胡座をかいて地べたに座り直したミロは、目の前のカミュの顔を改めて覗き込む。
「お前のことなんか、俺には判らないことばっかりだ。・・・でも、判ることもある」
「・・・たとえば」
「お前が、約束を忘れてないんだなって事とか」
 ・・・ぱちり、と紅い眼を瞬かせたカミュに、ミロは軽く肩をすくめた。
「・・・アイオリアに聞いた。教皇が俺らにあちこち行けって」
「――― 『あちこち』じゃない。お前がミロス島で、私は」
「シベリア」
「・・・そう」
「遠いんだよな、シベリアって?」
「そう」
「でもさ」
 ミロは、大きな眼を細めて、笑う。
「でもまた、俺もお前も此処に帰ってくるだろ。だから約束は、反故にはならないよな?」
「・・・、そんなこと」
 呟いたカミュの目線が、自然と地に落ちる。膝の上で握りしめた自分の手を見つめたまま、カミュはミロの顔を見ずにぼそぼそと言葉をついだ。
「・・・いつ帰るかも判らない。そもそも帰れるのかどうかも、判らない。黄金聖衣を継承するに相応しくないと判断されれば、それっきりだろう。お前は楽観的すぎる」
「お前が悲観的過ぎるんだよ、馬鹿だな」
 明るく笑う声にカミュが視線を上げれば、そこには空と海そのままの、青。夜の闇の中でも、曇り無く光に満ちている。
「俺たちは帰って来るんだよ。だって俺は、自分がスコーピオンだって知ってる。お前がアクエリアスだってことも」
 カミュの膝の上に握られた手に、もう一つの手が重ねられる。日に焼けて、擦り傷だらけで砂に汚れた、とても温かい、その手。
 ミロは、可笑しそうに笑う。
「こうやって触るとよく判る、前に宝瓶宮で見せてもらった水瓶座の聖衣、アレ、お前ととてもよく似た気配をしてた。水瓶座はお前のモノなんだなって、その時思った」
「・・・―――」
「蠍座も同じだ。蠍座の聖衣は俺だけのモノだって、俺は知ってる。だから俺たちは必ずまた此処に戻って来て、聖衣を継いで、いつか闘って死ぬまできっと此処にいる」
「――― どうして」
 カミュは、ミロの言葉に目を瞠る。・・・どうしてそんな風に言い切れるのか、判らなかった。約束を交わした頃のミロは、自分の居場所を知らなかったのに。なのにいつの間に、こんな風に思うようになったのだろう。
 問いに、ミロは気負うでもなく言った。
「だって、聖衣が俺を喚ぶから。天蠍宮に置いてある聖衣が云うんだ。早く纏うだけの力を手に入れて、為すべき事を為せって。それ以外に俺にやれる事は無いし、此処以外に居られる場処も無い。だけどそうすることが、きっと俺に色んなモノを与えるだろうって、そう云うんだ」
 重ねた掌に視線を落として、ミロは笑う。
「・・・『与えられるモノ』って、たとえば自分にしか出来ない事とか、自分のいる意味とか、きっと色々あるんだろうけど。お前と逢えた事とか、お前との約束とか、そう言うモノも女神が下さったモノなら、俺は女神の為に聖衣を継いで命をやっちゃうだけの代金を、もう充分貰ってると思うんだ。・・・どこまでも付き合ってくれるって約束、嬉しかったから」
 そう言って、本当に嬉しそうに笑う。
「なあ、神官たちがさ、いつも言うだろ。俺らは聖戦っていうものの為にいるんだって」
「・・・ああ」
「それってさ、本当の意味では離れたりすることはないって――― そういうことだよな?」
「・・・は?」
 唐突に跳ぶミロの言葉を測りかね、きょとんとするカミュに、ミロは珍しく辛抱強く説明する。
「だからさ、俺たちみんな、同じ目的の為にいるワケだろ?聖戦が起こるまでは、俺たち絶対聖域から切り離されたりは出来ないってことだろ?」
「・・・聖衣を継げば、そうだろうな」
「そんで多分、同じ戦場で死ぬワケだろ?」
「・・・まあ、多分」
 怪訝顔のカミュに、ミロはにっこり笑う。
「――― だったら、それまでみんな、ずっと一緒だって事だよな?」
 ・・・深いのか浅いのか全然判らないその論法に、カミュは呆気にとられて目の前のミロを見やる。
「・・・それは・・・そうとも限らないのでは」
「何でだよ?」
「今回のように勅命やら何やらで、長く遠くに行くことだってあるわけだし・・・危険な任で命を落とす事だって」
「聖戦以外で死ぬもんか。そんな弱い聖闘士になる気はないし、お前だってそうだろ。それにどんなに遠くに行ったとしても、聖域には必ず戻ってくるんだし」
「そりゃ・・・」
「だから」
 当然のように、ミロは断言する。
「だから、大丈夫。俺もお前も、絶対約束を破ったりしない」
 万事解決、とばかりににぱっと笑ったミロに、カミュは言葉もなかった。
 ・・・直感と思いつきだけの癖に。絶対、と言い切って勝手に一人で納得してしまうのは、強さなのか、それとも恐ろしい程安直なだけか。いっそ感心してしまう。
「・・・お前・・・、本当に単純だな・・・」
 思わず呟いた言葉に、途端にミロが猛然と抗議してくる。
「なんでだよ!?お前がややこし過ぎるだけだろ!」
「・・・。・・・まあいいけど」
 いっそ感心して・・・言い返す気にもなれず、思わず苦笑が漏れる。
 単純で――― 率直で。死すら運命づけられている未来でさえ、絆にしてしまう。この真っ直ぐさがあるから、聖衣の喚ぶ声とやらも、ミロには聴き取ることが出来るのだろうか。
 ――― 何だか、無性に馬鹿々しくて、無性に可笑しい。
 ・・・だって、思いもしなかったのだ。
 百万の御託を並べるよりも、ミロのこの単純さの方が、信じられるなんて。
 頭ではあまりにも脳天気が過ぎると、判っているのに。ミロの『絶対』の前には、己の無力も定められた道も不安も、全てどうでもいいような気になってしまった。
 ミロはこんなにも、自分と違う。時にはその差違に、苛立ったり困惑したりはするけれど、しかしそれは決して不快なものではなくて。むしろこんな風に、突拍子も無く差し出される言葉や心を、かけがえがないと思うから・・・だから自分はあんな約束をしたのだ。
 それを今更のように、思い出す。


「・・・一週間後」
「へ?」
 崖縁に座り込んだまま、唐突にカミュが言う。
「私がシベリアに行くのが、一週間後だけれど」
「へえ。で、俺は?」
 平然と問い返してくるミロに、カミュは再び冷ややかな視線。
「・・・なんで、自分の事を知らないんだ・・・?お前の従者は、教皇宮からの報せを持って来ないのか」
「仕方ないだろ。俺が、従者を全部閉め出してんだから」
 それを聞いて、カミュは深々と溜息をつく。
「ちっとも仕方なくないだろうソレ・・・。また癇癪起こして叩き出したな?」
「うるさいって。そんな事より、俺の発つ日は知らないのか」
「知っている。2週間後の予定だ」
 2週間後、とミロは口の中で繰り返す。そして暫し何やら考え込んだ末、不意に悪戯めいて、笑む。
「発つのは俺の方が後か。・・・でも俺、お前より絶対、先に戻ってくるから」
 またしても『絶対』と躊躇いもなく言うミロに、さすがに今度はカミュも胡乱な顔で返す。
「そんな簡単に戻って来られるものか。第一、きっと私の方が早い」
「何でだよ?」
「私は今でも、既にある程度凍気を使える。でもお前の力は、まだ海のものとも山のものともつかないだろうに」
「そんなの関係ない。俺はお前より先に此処に戻って来てやる。そんで後からのんびり戻って来たお前に、嫌味の一つも言ってやるんだ、今回の仕返しに」
 そう言ってミロは楽しそうに笑う。そんな相手の言い様に、もう怒る気にもなれずにカミュは苦笑する。
「そんな事を言って・・・もし私が先に戻って来たら、立場が無くなるぞ」
「だから先に戻るって。絶対」
 根拠の無い確たる言葉をまた口にして軽く笑い、ミロは立ち上がった。
 傍らで座り込んだままのカミュに手を差し伸べる。
「とりあえず、そろそろ宮に帰ろう。またいなくなったって騒がれるのも面倒だし、腹減ったから」
 またと言われるのはお前だけだ、と言い返しながら、差し出された手を握り返す。
 ――― あたたかい、乾いた手のひら。触れるといつも感じる鮮やかで眩しいような気配が、変わらずに伝わってくる。
 ・・・きっと、何処にいても。
 どんな時でも、この光は此処に在り続けるだろう。
 ならば自分も、きっと変わらずに信じられるだろう。
 交わした約束も、この掴みがたく揺らぐ自分自身の心すらも。この光が絶対、と言い切ってくれるのだから。
 ――― さあ、いこう。ミロがそう言って笑い、自分の手を引く。それにどこか酷く安堵した心持ちで頷き返し、カミュは繋いだ手を握りしめる。

 ・・・そうやって、共に行こうと言ってくれるなら。共に行けると、この者が信じてくれるなら。
 行こう。行けるところまで。
 この者の傍らに、いつでも迷いなく立つ為に。

 ――― いつまでも変わらずに、立ち続ける為に。










 ――― 一週間後。
 北の地に発つ朝、教皇への挨拶を済ませたカミュは、自宮を出る前に宝瓶宮の奥深くに安置されている黄金の櫃の前に立っていた。自分が継ぐべき物と言われてはいたが、殊更に興味を惹かれることもなく、カミュは今まで聖衣とこうして向き合う事が無かった。
 まだ幼い背丈は、櫃の高さを僅かに越える程しかない。しんとした冷気を放ち、確たる存在を主張して輝くその櫃に、カミュはゆっくりと手を伸ばし、触れてみる。
 ――― 相応しくない者が触れると、激しく弾き返されると聞く。悪くすれば、全身を吹き飛ばされる程。
 だがカミュが触れた時、僅かに震えるような揺らぎが櫃の表面に走ったが、それだけだった。
 ・・・反応は、良くも悪くも今のところ薄い。拒絶も受容もそこには無く、ただ『閉ざされてはいない』という感覚だけが、漠として感じられた。
 聖衣との血脈の路は、既に開かれている。後はただ、自分がその路を往き、辿り着くだけ。辿り着き、自分がとるべき物をとるだけ。
 きんと冷たい怜悧な黄金の表面に触れ、目を閉じる。
 ――― 『人』のものとは違う、だが確かに何らかの強い意思・・・のようなものを感じる。奥底には膨大な力を秘めながら、静謐として光る・・・それはまるで、巨大な湖のように。
 その湖面が、僅かにさざ波立っているのが判る。波を起こしているのは、自分の存在。自分の気配が微かな風となって、聖衣を喚び起こす兆しとなっている。
 小さな波音が、自分を喚ぶ。
 己を知り己の力を知り、力を振るう意味を知れと。惑いも全て凍てつかせ、凍える世界にも立っていられる者だけが、この力を手に入れる。欲するや否や、望むならば、とれと。
 カミュは目蓋を下ろしたまま、薄く笑む。ミロの言っていた喚び声とはこれか。しかし今更、否やの問いかけとは、笑わせる。
 ――― 路は、開かれている。進むべき先は、ひとつ。
 ・・・不意に、背後の宮入り口の方角から、カミュ、と聞き慣れた声が呼ばわるのが耳に届く。発つのを見送ると言っていたが、わざわざ天蠍宮から宝瓶宮まで上がって来たらしい。
 目蓋を上げたカミュは、その紅い瞳で金色に光る櫃を一瞥すると、躊躇い無く踵を返した。
 宮の入り口から、眩しい朝日が射し込んでいる。

 ――― その光の中へ、カミュはその紅い髪を靡かせ、真っ直ぐに駆けた。













<120406 UP>



2525hitのキリリク、お題は『カミュと喧嘩して拗ねるミロ・子供時代』でした…。
もう遙か昔のリクで、本当に今更で、アップするのも恥知らずな気もするのですが…ずーっとずーっとこねくり回した挙げ句に今回ようやく出来上がったので…(泣)。
拗ねるミロ、というよりは怒るミロになっててしかもミロの話ってよりカミュの話になってる…(><;
リクして下さった方とは、今となってはご連絡する手段も失われてしまいまして、こんな形になってしまって本当に申し訳ないです…。彼の方の絵も文章も大好きで、リク下さってとても嬉しかったのですが…ここを見て下さっている可能性は殆ど無いかと思うのですが、本当に申し訳ありませんでした、そしてありがとうございました。

…ネタ自体は、リクを頂くずっと前から頭にはあったもので、今回やっと形に出来たのは自分にとっては望外の喜びだったりします。独り善がり的な話で恥ずかしいですが、ウチのカミュとミロの原点は多分『導く者』で、それに連なる話として書けたのは自分としては本当に嬉しい。長いこと放置してしまったけど、サイト蘇生を機に何とかリクを消化しようと言うモチベーションがあったから、一応の形にする事が出来たのだと思います。
読んで下さってありがとうございました。







モドル