・・・もう何度目だ、と呻いた自分の声が、自分のものでないように思えた。
あと少し。本当にあと少しだったのだ。あと少しで、今度こそ出逢えたのに。
最後に『お前』を見失ったのは、遙か昔。まだヒトが母なる地球以外に生活の場を持たなかった時代に、聖なる女神の為に、聖なる古い土地の、聖なる宮を護っていた自分たち。
その土地の、真っ青な空を今でも思い出せる。
抜けるような蒼天の下で出逢い、共に育ち。そしてその同じ場処で、『お前』を失った。
以来、何度生を享け、何度やり直しても。見つけだした時には必ず『お前』は先に逝った後で、『俺』はいつでも間に合わず、一度として出逢えずに。これが神に逆らった報いなのかと、思い知る。
早く−−−早く。一刻も早く急がなければと、常に急き立てられ探し続けていたのに、結局、繰り返し『お前』を見失い続けてきた。
そして、今、また。
手に入れる直前、出逢う寸前。まるで流れる水のように、掌からすり抜けていった、その生命。
・・・目の前に横たわる骸が、絶望的なまでに鮮明だった。
地に散った髪の色は、夥しく流れる血液に混じって境界も判然としない。
もう少しで、手が届いたのに。目の前で、また見失ってしまった。
呆然と骸を見下ろした視線を、そのまま己の手の先に移す。人差し指の先に灯る、鮮やかな紅。今では何の力も無いけれど、これだけはずっと持ち続けてきた、記憶の証。
遙か昔から負ってきた、己の業そのもののような毒々しいその色に、俄に激しい憎悪を自覚する。
この色が、いつか失せたら。そうしたら、こんなすれ違いにならず出逢えるだろうかと、そう思ったのは、いつの時代のことだったか。・・・何回前のことだったか。
−−−もう、何もいらないのに。記憶も意思も誇りも証も、何もいらない。
捨てられなかったのは、『お前』のことだけ。
ただ、『お前』に出逢いたいだけだった。・・・なのに、何故。
この爪が、この業が、邪魔をしているのかとそう思ったら、自然手が動いた。
−−−十の爪のうち只一つ深紅に染まっている右手のそれを、何の躊躇いもなく左の指で一気に引き剥がし、投げ捨てた。
・・・引き剥かれ生々しい肉の露出した指先は、爪があった時より尚紅い。
ぱたぱたと零れる鮮血が、地に広がる同色の髪と血溜まりの上に落ち、じわりと染みこんでいく。
その様を、『俺』はぼんやりと見つめるしか無かった。
−−−はた、とその子供が目を醒ました時、辺りは薄ぼんやりとした暗闇に覆われていた。
枕元に灯した小さな常夜灯の光で、見慣れた部屋は橙色に照らし出されている。
子供は、毛布の下で小さな胸を押さえた。つい今し方まで見ていた夢の鮮烈な紅が、目蓋の裏に焼き付いて離れない。胸がどきどきして、掌が汗で冷たく湿っている。
それはまるで、指先から流れた血糊のように生々しい。
どんな夢だったのか、細かい処は思い出せなかった。けれど何か・・・とてつもなく大事な何かを失くしてしまった、そんな感覚だけが、まざまざと胸に残る。
下手をしたら、泣き出しそうな程の焦燥感。・・・だが泣き出すことは大層屈辱的な事だったので、子供はどうにかそれをこらえた。
・・・泣いたりせずとも、この焦燥を和らげる術を知っている。
子供はそれを実行すべく、唐突に毛布を跳ね上げ、起き上がる。
そして一目散に、部屋を飛び出して行った。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
・・・人類が、外宇宙へと船出して既に千年余。更に遠くへと手を伸ばし続けた人類は、広大な宙域を手中におさめ、爆発的に人口を増やしながら繁栄を謳歌した。
だがやがて、その繁栄に陰りが見え始めた時。広がり過ぎた勢力圏の末端は、中央から切り離された辺境の星々として孤立した。貧しい彼等は、辛うじて繋がっている中央とのラインを細々と死守しながら、それでも独自に星に根付いて必至に生き抜いた。だが、過疎化した人口や文明の退行は如何ともし難く、その生活は近世の地球に近いものとなった。
−−−そんな辺境惑星の一つに、中央からふらりとやって来て住み着いた変わり者の若い学者が、ひとり。
中央生まれ、中央育ちの青年は、その土地で辺境特有のとある出来事に巻き込まれた。
過疎の惑星では子供は大事な財産。よって孤児であれ大事に扱われる。孤児一人一人に対し、住民の中から相性が良いと思われる里親が、星を統括するシステムコンピュータによって厳選され指名される。そして住民は、里親の指名を基本的には拒否できない。
・・・白羽の矢の一本が、何故か自分に立ったのを知った時、青年はすぐさまその役目から逃れようと躍起になった。だが案の定青年の意思が通ることは無く、何度かに渡った陳情や苦情は全て徒労に終わった。
土地勘の薄い余所者な上、若い独り者の自分に何故、と首を傾げ溜息をつくばかりだったが、こうなっては仕方がない。
−−−そして青年の元に、一人の子供がやって来る。
碧玉の瞳が印象的な、ひどく勝ち気な金髪の子供。
5歳をようやく越えた幼い子供と、寡黙な青年。その奇妙な組み合わせは、静かな土地の片隅で、ひっそりとした暮らしを送っている。
‡ ‡ ‡ ‡ ‡
「・・・カミュ!」
−−−深夜。
寝付いた筈の子供が突然居間に駆け込んできたのを見て、若い家の主は僅かにその紅い瞳を見開いた。
暖炉の前の肘掛け椅子から子供を顧みた青年の髪は、目と同じ紅。炎の照り返りで、その色合いは更に深みを増していて、子供の目にも美しく映える。
その紅を目がけて駆けてきた子供は、勢いを殺すことなく、毛布に覆われている彼の膝に取り付いた。・・・青年の膝の上で、本の頁がぱらりと何枚か翻る。
「・・・どうしたんだ、眠った筈だろう」
寝乱れてくしゃくしゃになった金の髪に青年が手を置くと、子供は大きな碧眼をじっと向けてくる。
「・・・ヤな夢を見た。だから」
夢、と青年は呟き、穏やかに問う。
「嫌な夢とは、どんな夢だった」
「憶えてない。・・・ただ、指が」
「・・・指が? どうした」
促すと、子供はじっと自分の右手に目を落とす。
「・・・人差し指に、真っ赤な爪があって・・・それが血だらけになって。・・・それで」
「それで、・・・怖かったのか?」
柔らかな声音で尋ねたその問いに、子供はかぶりを振る。
「・・・違う。怖かったんじゃない」
とりついた膝に、子供はこてんと頬を寄せ、呟く。
「・・・怖かったんじゃない。何だか悲しくなった。・・・ひとりぼっちみたいな気がした」
その言葉に青年は笑み、宥めるように金髪をそっとなでつける。
「おかしなことを。見てご覧」
そう言って、青年は小さな子供の両手を取ると、それを炎の方へかざしてよく見えるようにして、示す。
・・・綺麗に並んだ、小さな爪。
だが一つだけ、右の人差し指だけが爪が無い。
これは子供の生まれついてのもので、決して負傷して失ったものではない。人差し指の先は、爪の代わりに綺麗な皮膚で覆われている。
残り9個の爪は、健康的な薄い桃色に揃っており、その様はまるで小さな貝殻の群れのようだ。
それを子供と一緒に眺めて、青年がゆっくりと言う。
「・・・どこにも、血など無い。紅い爪も無い。綺麗だろう?」
「・・・うん」
目の前の自分の両手をまじまじと見て、子供はやがて納得したように、笑う。
「うん、キレーだ。血なんか無いね」
「そうだな」
頷いて微笑む青年の顔を見て、子供はもう一度笑うと、不意に強引にその膝によじ登る。
そして居心地良くそこに納まると、満足げに青年の胸に耳を押し当てるようにして、目を閉じる。
「お前・・・此処で眠る気か」
少し呆れた青年の声に、子供は悪びれずにそうだよと笑う。
小さく溜息をついた青年は、仕方なく自分の膝掛け毛布を子供にかけてやった。そしてずり落ちないように小さな躰を抱え直しながら、微かに笑う。
「・・・子供扱いするなといつも言う癖に。まだ一人では眠れないのか」
「うるさいな。今日だけだから、いいんだ」
一方的な口調で言って、ぬくぬくと毛布にくるまった子供は、満足げに笑う。
そして眠そうに目を擦りながら、ふと呟くように呼びかけた。
「・・・カミュ。あのさ」
「何だ?」
青年の長い髪が、落ちかかって子供の頬に触れる。子供はそれに気持ちよさそうに目を細めて、また笑う。
「あのさ。・・・俺ね、此処に来れて良かったって思ってるんだ。此処が好きだし、カミュも好きだから。逢えて良かったって」
「・・・そうか」
短く応じる青年の声と金髪を撫でる手は、とても穏やかだ。子供は胸に押し当てた耳から直接伝わる青年の鼓動の音に、耳を澄ます。
・・・目蓋の裏に焼き付いていた紅も、掌の血糊の感触も、もう感じない。不安な夢はもう遠くに行ったのだと、子供は安堵する。
−−−やっと、此処に辿り着いた。何故だかそんな気持ちになって、胸の中がとても温かい。
躰の奥底で、ずっと目醒め続け疲れ切っていた何か−−−誰かが、ようやく穏やかな眠りにつこうとしているような・・・そんな気配がする。
−−−やっと、見つけた。
ずっと・・・ずっとただ、逢いたかった。
声にならない声で子供が呟いたその言葉が、青年に届いたかは、判らない。
ただ引き込まれるように落ちる眠りの中で、子供は見た気がした。
−−−真っ青な、懐かしい綺麗な空。
その下で見た、大好きだった人。・・・その、笑顔を。
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