85.海








 その日、シャカは唐突に海が見たくなった。
 理由は無い。ただその日は、ギリシャの夏らしく朝からとても暑く、空はやはり底抜けに青かった。それを眺めていたらふと以前に、いつも元気な蠍座の聖闘士が、暑くて死にそうだから海に行こうとアイオリアに喚いていたのを思い出した。それもこんな天気の良い日だったのだ。
 聖域はエーゲ海と目と鼻の先だから、岩山の麓の隙間から煌めく水平線を臨むことが出来る。けれど聖域に来て凡そ8年、考えてみると自分は、ギリシャの海をついぞ間近で見たことがない。
 どうせ暇だし、珍しくいつもは留守がちな十二宮の守護人の何人かが戻って来ていて、自分が少し留守にしても構うまいという気持ちもあった。
 −−−本当は、海でなくとも良かった。ただなんとなく、視界一面を青で染めてみたくなった。
 それには海が一番に思われた。



「・・・あれ。シャカ、どこ行くんだ?」
 処女宮をふらりと出て、石段を降りて行ったら獅子宮を過ぎたところで、数人の同僚に行き当たった。
 闘技場で身体を動かして来た後らしく、皆鍛錬用の軽装だった。面子はいつもの獅子座、蠍座に、シベリアから丁度戻っていた水瓶座。
 自ら自宮を出て降りてきたシャカに、真っ先に声をかけたのは、蠍座のミロだ。
「獅子宮より下に降りて来るなんて珍しい。聖衣着てないから、勅命って訳じゃないよな? どうかしたか」
 ビックリ顔で言う蠍座に、シャカは形の良い眉を僅かにひそめる。
「・・・どうかしなければ降りてきてはいけないのかね」
「お前が自分から一人で降りて来るなんて、どうかしたかと思うぞ、普通」
 ミロの言葉にアイオリアが激しく頷いて、心配そうに言う。
「ミロの言う通りだ。どうしたのだ、何かあったのか。そして何処に行くのだ」
「・・・・・・・」
 同僚たちの反応に明らかに気分を害したらしいシャカは、更に深く眉をひそめる。まるで分別のつかない幼子のように扱われるのは、心外だ。
「・・・平素より少し余計に降りて来ただけで、何故このシャカが、君たちにそのような詰問を受けねばならぬ。余計な世話とは思わないのかね」
「心配しているのだ! ヘソ曲がりな事を言っていないで教えろ、シャカ」
 シャカはぶすりとした顔で、数秒アイオリアを閉じた目で睨んでいた。が、しかしやがてポツリと言った。
「海」
「・・・は?」
 突然脈略無く呟かれた単語に、聞いていた三人が思い切り不審な顔で一斉にシャカの顔を見る。
 シャカは全く表情を変えずに、言葉をついだ。
「海。・・・を見に行こうと思っただけだ。納得したかね」
「う・・・海!?・・・お前がか!?」
 仰天して声を上げたアイオリア。しかし一方で、ミロが全く違った顔で声を上げていた。
「海に行くのかシャカ! なら俺も行く、連れてけ!!」
「・・・。おい、ミロ・・・」
 そのまま突っ走りそうな友人を止めるべく、カミュが口を開くが、ミロは全く聞く耳を持たない。
「暑いもんな! 俺、穴場知ってるぞ、みんなでこれから行こう!」
 満面の笑みであっけらかんと言うミロに、アイオリアとカミュが半ば呆然とその顔を凝視する。
「みんなって・・・この面子か!?」
「?他に誰か誘うか? でも、十二宮に残る奴がいなくなったら困るだろ?丁度デスマスクたちが戻ってるから、俺らがちょっとくらい出ても大丈夫だと思ったんだが」
「・・・・・・いや・・・そういう問題では・・・」
「あ!なんか食うモノ持っていこう。アイオリア、獅子宮から何か持って来てくれよ」
 振られて咄嗟に返答に詰まったアイオリアの代わりに、シャカがミロの方に顔を向けた。
「・・・ミロ。穴場というのは、何だね」
「何って、言葉通りだが。誰も来ない綺麗な海岸を知ってるって話」
「人が来ないのか」
 確認するように言ったシャカの言葉に、ミロはにやと笑う。
「来ないというか、来られない。俺たちには何程のこともないが」
「・・・そうか」
 シャカは僅かな間、何か考える素振りをするが、すぐに顔を上げる。
「よかろう、案内したまえ。その穴場とやら」
 この言葉に、ミロはにかっと笑って任せておけ、と胸を張る。が、残り二人、アイオリアとカミュは思わぬ展開にただただ呆れて、急に意気投合した奇妙な金髪コンビを見比べていた。



 ミロが案内した場処は、確かに一般人には進入不可能と思われるところだった。
 厳しい断崖絶壁に囲まれた、小さな白い砂浜。久し振りなので場処がウロ覚えだということで近くまで瞬間移動し、そこからはひょいひょいと崖を越えて辿り着いた。少女のように細い体躯のシャカでさえ、まるで平地を歩くが如く容易に越えたが、通常の人間がこれを越えようとしたら、相当の努力と相応の道具が必要となる程の絶壁である。
 崖の上からはほぼ一気に飛び降りて、白い砂に着地する。
 丁度崖の影になって、周囲のビーチや人家からも見えない角度で、目の前には無人の真っ青な水平線と、同じ色の空ばかりだ。潮を含んだ風が、それぞれの金や赤の髪を煽る。
「・・・ここは・・・」
 何か思い当たったように、カミュが周囲を見回してからミロに視線を移す。ミロはそんな友人の様子に、満足そうに笑って言った。
「覚えてるか。チビの頃、サガが俺とお前を連れてきてくれたところだ。俺が泳ぎたいと駄々をこねた時に」
「・・・確かあの時も、私を強引に引っ張って来たな・・・」
「だってお前が居た方が楽しい。それにお前だって泳ぐの嫌いじゃないだろ、涼しいから」
 言うなりミロは靴だけ脱ぎ捨て、友人の腕をひっつかまえるとそのままザバザバと青い水面を掻き分けていく。引きずられて、こら待てと抗議するカミュには一切構わず、着たままの服がずぶ濡れになっていくのも勿論構わず、どんどん沖へ進む。
 浜に残ったアイオリアとシャカの元に、カミュが呆れてミロを責める声と、ミロの明るい笑い声が切れ切れに風に乗って聞こえてくる。やがてカミュは諦めたのか、脱ぐ暇もなく海水に漬けられた靴を海から浜へ放り投げてきて、そのまま浜に背を向けて少しずつ沖へと遠ざかって行く。
 来ないのか、とミロが叫ぶ声が聞こえる。
 僅かな日陰にふわりと座ったシャカが、傍らで立ったまま小さくなった二つの人影を見やるアイオリアを、砂の上から見上げた。
「・・・行かないのかね。私のことは気にせずとも良いが」
「うん、まあ・・・」
 アイオリアは曖昧に笑い、遠く波間に見える金髪に向かって、後から行く、と怒鳴る。するとミロは手を振って了解の意を示し、そのまま先に沖へ行った友人の後を追った。
 アイオリアはシャカの隣によっこいせと腰を下ろし、そのまま砂の上にごろりと寝っ転がった。
 視界が、青い空でいっぱいになる。
「あー、良い天気だ・・・。確かにこんな日は海風が気持ちいいな、シャカよ・・・」
 言って傍らを顧みたアイオリアは、不意に言葉を無くして黙り込んだ。・・・視線が、良く見知っている筈の隣人に釘づけになる。
 シャカの横顔が、明るい日差しに光るように白く美しく、潮風に靡く淡い金髪の輝きも綺麗だった。そして何より、滅多に開かぬ眼が静かに開いている。真っ青な瞳が同じ真っ青な水平線を遠く見つめている様は、まるで違う世界の住人のように浮世離れして見える。
 不覚にも暫く見とれたアイオリアに、シャカが怪訝な顔を向けた。
「・・・私の顔に何か付いているかね、リア」
「・・・いや別に。目と鼻と口が付いてるだけだが、眼が開いていたんで少し驚いた」
 その答えに、ふんと鼻先だけで答えて、シャカはまた水平線へ視線を戻す。
 その横顔を眺めながら、アイオリアは問いかける。
「・・・海が見たいって、一体どういう風の吹き回しだったのだ、シャカ」
「・・・、別にどうという訳もない。・・・ただ、」
「・・・ただ?」
 シャカが、再びアイオリアの方に顔を向ける。まるで吸い込まれそうな深い青の双眸が、真っ直ぐにアイオリアに注がれている。
「・・・ただ・・・、近くに在るのに見たことがない、というのが不可解に思えただけだ。それに、時には色鮮やかな景色を見るのも良かろうと」
「成程な」
 アイオリアは苦笑する。確かに聖域は一面岩場の乾いた灰色、茶色ばかりの世界で、味気ないことこの上ない。このような紺碧の景色のただ中に身を置くと、色彩が躰に染みこんでくるような気がする。
 シャカの顔を見上げて、アイオリアは微笑する。
「・・・近くに在って滅多に見られない色と言ったら、お前の瞳の青も同じだな。ここの海の色とよく似ていて、とても綺麗だ」
 思ったままを素直に言った言葉に、シャカは一瞬絶句したようだった。
 そして、フイとまた視線を水平線へと戻してしまう。アイオリアの目には、シャカのその白い頬に微かな朱が見てとれた気がしたが、日差しに灼けたせいか、ただの錯覚か。
「・・・世迷い言を」
「本当だ、いつも開いていれば良いものをと思う。そうしたら俺は、いつでも海を見ている気分になれるのに」
 屈託ない笑顔で言ったアイオリアに、シャカは呆れたように溜息を落として呟く。
「・・・君は、自覚があるのかね・・・自分が時折とんでもなく気障な言い回しをしているというのを」
「何ッ・・・!? そうなのか・・・!? ど、どのヘンが!?」
 思わぬ事を言われて慌てだしたアイオリアに、シャカは不意に表情を崩した。
 見ていたアイオリアが言葉を失う程に柔らかい、光るような微笑がそこにある。
「・・・それが君の君たる所以か、リア。無自覚とは恐れ入る・・・」
 そう言って、シャカは小さく笑う。
 ・・・恐れ入るのはお前のその美人さ加減だとアイオリアは言いかけて、慌ててやめた。また何か文句をつけられる気がして。
 −−−一際強い潮風が海からやって来て、シャカの淡い金髪を綺麗に広げて煽っていく。反射する光が残像となって残るのを、アイオリアはただ黙って眺めやる。
 ああ、本当に綺麗なのに、と、心の中だけで呟いて。



 ・・・ざっぱーん!と、突然巨大な水しぶきが上がり、砂浜を水浸しにした。
 シャカも、シャカを眺めてのんびり目の保養にいそしんでいたアイオリアも、一気に大量の水滴を浴びる。
「な・・・っ、何だ!?」
 飛び起きたアイオリアの耳に、けらけらと軽い笑い声が聞こえた。見れば浅瀬まで上がってきたミロが、濡れ鼠になった二人を見て大笑いしている。沖から追うように近づいてくるカミュの、非難を込めた呼び声も聞こえる。
 ・・・どうやらミロが、水中から岸に向かって小宇宙を放ち、いつまでも日光浴ばかりしている二人に海水をお見舞いしたらしい。
「ミロ!お前か!!」
 ずぶ濡れになったアイオリアが怒鳴ると、まだ腰から下は海中にあるミロが、口惜しかったらやり返せ、と叫び返してくる。
 日光にさらされ続けて、いい加減熱をもってきた肌に、冷たい水が心地よかった。ふるん、とひとつ頭を振って水滴を散らすと、アイオリアは勢いよく立ち上がる。
「不意打ちとは卑怯な奴め。雪辱戦だ、お前も来い」
 そう言って、笑って傍らのシャカの腕をつかむ。僅かに戸惑った顔でアイオリアを見上げるシャカも水浸しで、濡れた髪やまとった衣装から、雫がしたたっている。
「・・・リア、私は」
「いいから。まさか泳げないとは言わんだろうな?」
「馬鹿を言いたまえ。泳げなければとっくの昔にガンジスで溺死だ」
「だったら来い。こんなところでぼーっと瞑想してたら、熱で倒れるぞ。少し冷やせ」
 もう一度笑って少し強引に腕を引くと、意外にも素直にシャカは立ち上がった。嬉しくなったアイオリアは、思わずシャカの細い躰をひょいと抱え上げる。
「・・・リアッ!?」
「この方が早いぞ!!」
 言うなり、あろうことかアイオリアはボールでも投げるかのように、思いっきりシャカの躰を沖合に向かって投げ飛ばした。
 ・・・綺麗な放物線を描いて青い空を飛んでいくシャカを、浅瀬にいるミロとカミュが呆気にとられて見上げ、視線で追っている。
 ややあって、相当な沖合でどぼーんと水柱が上がる。・・・そして、数秒の間。
 −−−突然、ずわりと怒りの小宇宙が沖で膨れあがったかと思ったら、大量の海水が津波のように押し寄せ、浜にいた三人を例外なく押し流したのであった。












・・・遠足ツアー、引率者無しで事故発生(藁)。意味無し・・・。
またしても14歳くらいのイメェジ・・・。

モドル