ギリシアとは言え、11月にもなれば肌寒い風のひとつも吹く。
−−−記憶にあるのは、そんな秋の風の中。風より冷たい極寒の地の気配をまとわりつかせて笑む、その姿。
当日が無理でも、前後には必ず帰ってきた。そんな事しなくてもいいと、何度言っても、ただ笑って。
毎年そんなことが恒例だったが、確かあれは昨年のこと。あの時はきっちり当日に帰ってきて。俺はいいかげん呆れて、礼より何より、まず問うた。
「・・・何で、誕生日って祝うんだろうな」
俺の唐突なその問いに、奴は少しだけ目を見開き、それから小さく苦笑した。
「何故だと思っていたのだ、今まで」
・・・さあ。俺は何とも間の抜けた答えを返す。
「おめでとうと言われるから、ありがとうと答えるが。・・・考えてみると、それが何故なのかよく判らないな」
「それで漫然とその歳か。酷い話だな」
くっく、と可笑しそうに奴は笑い、いつものひやりとした指で俺の髪に触れてくる。遠い北の空気をまとわりつかせたその手は、何だか近いのに遠い感じがして。
奴は薄く笑って、言った。
「もういい加減、大人と言って良い歳になるのだし。それくらい判って欲しいものなのだが?」
「・・・また馬鹿だと思ってるだろう」
俺がじろりと睨むと、奴はまた笑う。
「言われたくないなら、来年までに考えておいてくれ。訳もわからず、ありがとうなんて言われるのはもう勘弁願いたい」
「なんだソレ。俺にまで先生ぶる気か、お前」
憮然として俺が言ったら、そうだな、宿題だ、などとほざいてまた笑う。・・・俺の前だと奴は時々、どうしてこんなに笑うんだというくらい、笑うのだ。
そして奴はまた、面白そうに笑んで。
「・・・とりあえず。今年も」
−−−誕生日おめでとう。
・・・毎年、必ずくれるその言葉。俺が以前、物はいらないと言ったせいなのか。一年に一度、決して欠かすことはなく、奴は必ず言葉だけをくれた。
・・・それはまるで、何かの約束のように。
俺はその意味も意図も、さして考えることもなくて。ただいつも訳もわからず、ありがとうと返していたけれど、さすがにこの時はそうは言えなくて。
うん、とだけ答えたら、またしても奴は可笑しそうに笑った。
−−−そんな話を。
そんな馬鹿みたいなやりとりをしたのだ。宿題だ、なんてうそぶいていたのは、奴の方で。
・・・俺は、やれやれと溜息をついて目の前の石っころを眺める。両腕で抱え込めるくらいの大きさの、奴の名前が無造作に彫り込まれている、その石っころ。
墓標、という名のその石は、他の無数の石碑の中に埋もれるようにひっそりと、そこに在る。ただ静かに、何も言わずに。
俺はその前に胡座をかいて座り込んでいた。重苦しい曇天の下、ひやりとする秋風が海から吹いてきて、遠慮無く髪を煽っていく。
・・・やれやれ、と。
そんな言葉しか出てこない。あれから1年、宿題だなんて言っておいてお前がいなくてどうする。馬鹿じゃないのかお前。
毎年毎年、阿呆みたいに繰り返して。繰り返すばかりで、他に何も言わずに。
毎年繰り返すことが出来るその独りよがりな幸福を、何も言わずに勝手に楽しんでいたんだろう。祝っていたのは、その幸福。・・・宿題の答えはそんな処だろうと、そう思う。
そしてその答えの代償が、この喪失か。・・・まったく割に合いやしない、ホントに馬鹿じゃないのかお前は。
そんなことを、石っころに向かってぶつくさ言ってみる。だが、呟いた言葉は途端に風に奪われて消え、勿論石っころも何も言わない。
俺は、天を仰ぎ見る。
・・・秋に入って雨が増えてくる季節だが、それにしてもこのところ異常な天候不順が続いている。今は雨も途切れているが、空は厚い雲に覆われ、またいつ水滴が降ってくるか判らない。
・・・嫌な気配がする。海からの風に混じって、何か大きな意思の力が世界に満ちて。何かが、すべてを破壊しようとしている気配。
・・・それは、紛うことなき、闘いの予感だ。
−−−もう、誰も。
繰り返す生誕の日を祝う者はいない。二度と祝う必要もない。
いつか闘う道具として、戦場に赴く為に生きてきた自分たち。しかしそんな自分を今まで生かしてきたのは、人としての心だ。
毎年毎年、飽きもせず繰り返す言葉や笑み、そんなものが、多分自分を人として繋ぎとめていた。
・・・だけどもう、それも必要ない。一年ずつ歳を経ていく人としての己はもう要らず、要るのはただ、闘う力。道具としての己だけだ。
こんな時がいつか来ることなんて、判っていた癖に。それでもお前は毎年毎年、欠かさず諦めず、産まれ生きることを幸いだと言い続けて。
−−−一陣の冷たい風が、また海から吹きつける。煽られた髪に視界を塞がれ、目を閉じた。・・・その一瞬。
・・・誕生日、おめでとう。
風鳴りの合間に、聞いた気がした。穏やかな、笑みを含んだあの、声。
空耳だと、そんな事は判っていたけれど。
思わず、苦笑いして目の前の石っころを眺める。
・・・最後の、もう本当に二度と聞くこともないだろう、その声と言葉。自分は一度として、正しく言葉も心も返してやることすら、出来なかったけれど。
せめて、人としての己は全部お前にくれてやる。だからそれで手をうってくれ、と呟いて、笑む。
・・・立ち上がったその時に、再び天からはぱらぱらと雨粒が降り始めた。石畳や墓標の群れの上を、黒い染みが湧き出るように覆っていく。
墓所の向こうに雨で霞む、遠い水平線を臨む。
・・・海から何か、嫌なものが来る。無垢な殺意と傲慢を伴った、とても大きな意思が、闘いを連れてくる。
−−−踵を返し、石っころの前を立ち去るその時も、もう俺は振り返らなかった。
振り返り想いを残す心は、地中に眠る者へ。すべて渡してしまったから。
HAPPY BIRTHDAY MILO.
<041108UP>