77.雨











 ・・・降り続く静かな雨が、荒涼とした聖域をしっとりと濡らしている。
 青銅聖闘士たちとの十二宮の闘いから、数週間。まだあちこちに散乱する瓦礫も生々しい十二宮は、けぶる霧雨の中で眠ったような静寂に満ちている。
 ・・・そんな、静かなある午後のこと。





「・・・あれはね。怒っているんですよ」
 白羊宮の居間で、宮の主が呟いた言葉に、訪れていた隣人が視線を上げた。
 暇を持てあまし、雨の中を散歩に出て白羊宮に顔を出したアルデバランは、お茶に呼ばれたところだった。
 差し出された茶を受け取って、ムウの言葉にアルデバランは僅かに眉をひそめる。ちなみに茶は紅茶ではなく、湯飲みにつがれた緑茶だった。ムウは日本茶や中国茶を好んでよく飲んでいる。
「・・・怒りなのか?・・・そうかもしれんが、あまりそうは見えんな」
 ふう、とため息なのか熱い茶を冷ます為なのか、一つ息を吐いてアルデバランは茶をすする。
 −−−本来十二人いるべき黄金聖闘士は、あり得ない事に現在その半数にまで減っていた。そのうちの一人は五老峰から動けず、実質は5人。十二の聖宮があるにも関わらず、八番目の天蠍宮を最後に以降の宮は全て無人という、恐らく史上かつてない程に今の聖域の守りは薄い。その為、生き残った5人の黄金聖闘士は全て聖域常駐となり、かつてはジャミールに引っ込んで出てこなかったムウも白羊宮に留まっている。
 アルデバランは恰幅のいいその肩を僅かにすくめて、ムウの穏やかな顔を見やる。
「・・・あいつは怒ると、それこそ烈火のごとくではないか。しかし今はそういう風には見えん」
「だから始末が悪いんですよ。・・・あなたは」
 紫水晶のような瞳を、ムウはひたりと隣人に向けた。
「あなたは経験がありませんか? 人は、怒りが過ぎると冷えるんですよ」
「・・・何がだ」
「心が」
 さらりと言って、ムウは自分の茶を啜る。アルデバランも憮然とした表情で黙して、やはり茶を啜る。
 なんとも言えない沈黙がその場に満ち、かすかな雨音ばかりが、耳につく。




 ・・・話題は最初、諸々についての雑談だった。長年偽の教皇を奉っていた教皇宮の神官達の動揺、廬山の老師の動向、破壊の度合いが酷かった処女宮を住居とするシャカの近況、長年逆賊の誹りを受けていた兄の無罪がようやく証明されたアイオリアの様子。そして、現在最後の守護聖宮となった天蠍宮の守人に話が及んだ時、アルデバランはどうも解せない、と言った顔で言ったのだった。「特別変わった様子はないが、それにしてもおかしな目つきになった気がする」と。


「・・・幸い、と言うべきか。俺はそういう・・・怒りすぎて『冷える』などという経験はないが。・・・お前はあるのか、ムウよ?」
 出された菓子などつまみながらアルデバランが問うと、ムウは不意に、ふうっと目を細めて笑んだ。・・・見る者の背筋に、冷たいものを感じさせるような微笑だ。
「そりゃあ、ありますとも。今だから言えますがね、アルデバラン。私は13年間、ずぅーっと怒り続けていたんですよ・・・ジャミールで、一人でね」
「・・・。・・・そう、なのか・・・」
 冷や汗をかきつつ、アルデバランは隣人の顔を見る。ムウは相変わらず、凍るような微笑を浮かべている。
「そうですとも。尊敬できる師を、最も頼りにすべき時期に突然奪われました。しかもあまりに微妙な状況で、それを声を大にして誰かに訴えることも出来ず、ジャミールに引っ込むしかなかったんですよ・・・13年間もね。それで怒らない訳、ないでしょう?」
 お陰ですっかり『冷えて』しまいましたよ、と言ってムウは軽く笑う。・・・一見とても穏やかに見えて、実はひどく激しい性質の隣人の吐露に、アルデバランは言うべき言葉を失って、ただその顔を見るばかりだ。
 そんなアルデバランの様子には構わず、ムウはにっこりと笑う。
「ま、もう過ぎた事です。私はずっと、何故こんな事になったのだろうと思っていたんですが、今回の件で大体の真相は判りましたし、もういいです。恨み言は、死んでからゆっくりと冥界でサガにでも言うつもりです」
「そ・・・そうか・・・」
「そうです。ついでに言うと、サガの自害についても私は大変に怒っているんですがね。人の親代わりとも言える人をブッ殺した上にその地位に成り代わっておいて、さっさと死んで逃げるとは。ナカナカいい根性だと思うんですが」
 ふっふっふ、と低く笑うムウの目は、まったく笑っていない。アルデバランは益々汗だらけになる。・・・ムウはよく『天翔ける羊のように穏やか』などと言われるが、隣宮の気安さもあって比較的親しく話すことも多いアルデバランには、それが全く理解できない。天の羊とはかくも気が荒いものかと思う。
 ムウは相変わらず、そんな隣人の胸中にあまり頓着せず、けろりとした顔で言った。
「まあそれもどうでもいい話ですけどね。・・・それで話を戻しますが、ミロの件」
 あっさりと話題を転換して、こくり、と一口茶を含んで。
「そういう訳で、あれは怒っているんだと思いますよ。これ以上ないくらいに」
「・・・。そうなのか」
 そういう訳というのが一体どういう訳なのか、アルデバランにはイマイチよく判らないが、とりあえず頷いてから、問う。
「・・・愚問という気もするが、何に対する怒りだと?」
「色々じゃないですか? 今回は、本当にあり得ない事ばかりでしたし」
 ムウは茶飲みを置くと、一つ一つ指を折りつつあげつらう。
「ずうっと神殿に居ると信じていた女神はおらず、拠り所にしていた教皇は13年間も偽物で、正体は二重人格の双子座の聖闘士。本物の女神は自家用飛行機飛ばして登場、だけど聖域に着いた途端に、たかが白銀の放った矢に倒れて半死半生。神話の時代から難攻不落を誇っていた十二宮は、青銅が黄金を次々ぶちのめして突破。挙げ句の果てに偽教皇は、散々暴れ回った上に自殺。結果、聖戦を控えているというのに、残る黄金は実動でたったの5人足らず。・・・あり得ませんよねえ、色々。怒りたくなるキモチはとってもよく判りますけど」
 内容は正しいが、かなり微妙な言い回しとその口調に、アルデバランは無言を守った。・・・触らぬ神になんとやらである。怒りが強いのは、むしろこの牡羊座のように思える。
 ムウは一旦言葉を切ったが、数瞬の間の後、それに、と言葉をついだ。
「・・・それに、親しい者が死んだら怒りたくなるのも道理です。・・・特に、『うっかり死に』みたいな死に方じゃ、尚更」
「・・・・・・『うっかり死に』・・・」
「だってそうでしょ。黄金聖衣を纏った師匠が青銅聖衣の弟子と同じ技撃ち合って、師匠の方だけ死ぬなんてあり得ませんよ。うっかり死んだとしか思えません。そもそも殺る気なんかなかったんでしょ」
「・・・。・・・そうだな・・・」
「問題は」
 再び湯飲みを取り上げて、ムウはまた一口茶を含む。
「怒っているのがミロだということです。元々苛烈な人ですからね、マジギレしたら結構根は深そうですよ。目つきの一つや二つ変わったって仕方ないでしょ。・・・まあ、そうそうヤワな人でもありませんから、あまり心配してませんが」
 そう言って、にっこりと邪気のなさそうな笑顔で笑う。
「逆にその方がいいかも知れません。大抵の場合、人は平時より怒っている時の方が馬鹿力が出るものです。聖戦間近と思われるこの時期には、タイムリーかも」
「お前な・・・・・・」
 さすがに呆れて、アルデバランが口を開く。
「いくらなんでも冗談が過ぎる」
「冗談じゃありませんよ」
 ふ、と笑みを消して、ムウは言う。
「・・・繰り返しますが、間違いなく聖戦が近いんです。我が師シオンはそれを見越して、必死になって黄金を全て揃えたというのに、結局こんな内輪もめで半数しか残らなかった。これは本当に危機的状況です。過去幾度と無くあった聖戦の中でも、ここまで黄金が少なかったことはかつて無い」
 かすかに底光りするムウの瞳。それに向かってアルデバランは、そうだな、とだけまた返し、そのまま黙って茶を啜る。
 ・・・元々、全ての聖闘士は来るべき聖戦の為に存在している。聖戦において女神を護り、その為に命を投げ打つこと。それこそを目的に生きていると言っても、過言ではない。
 なのに聖戦以外に内紛とも言える闘いが存在し、それによって命を落とす者があるなどと、誰も思っていなかったのだ。今回の十二宮の闘いは、生き残った聖闘士たちにとっても様々な意味で痛手だった。
 ・・・たった一人の、孤独な聖闘士が引き起こした内乱。純潔を求めるあまりに己の闇に食い尽くされた彼を、結局誰一人として救うことは出来なかった。
 その結果として突きつけられた現状を、それぞれが苦い思いで噛みしめている。
 −−−せめて、彼が生きていてくれれば。彼だけでなく、死んだ者たち皆、生きてさえいてくれたら。・・・そう思わずには、いられない。
 生きてさえいてくれたなら、そうしたら今度こそ、逃げずに何度だって問いかけるのに。
 何故、こんな事になったのか、彼らが何を信じ、何を望んでいたのか。同じ場処、同じ時代を生きた我々に、本当に何も出来る事はなかったのか。
 −−−何故、何も言わずに我らのもとを去ってしまったのか、と。
 死によって贖罪と救済の機会を永遠に絶たれたのは、死んでいった彼ら自身だけではないと、思い知る。

 ・・・ふと、ムウが窓の外に目をやり、アルデバランもその視線を追う。霧雨にけぶる十二宮の遙か上方、教皇宮と、女神神殿が雨に霞んでいる。
 それらはひどく孤独に、静かに聖域を見下ろしている。
 −−−何故、と繰り返す問いにも答えることはなく。怒りも悲しみもそのままに、ただ深い静寂だけが、生き残った者たちの手に残される。


 ・・・今はただ言葉を失うしかなく、皆それぞれが雨の帳の中で見据えている。
 己の歩んできた道、そしてこれから歩むべき道を。






 −−−来るべき闘いの予感に、胸を焦がしながら。













<041225UP>



81番『誕生日』と同時期(十二宮編とポセイドン編の間)で別視点、とゆーカンジです。
随分前に書いたものを手直ししたものですが、これがムウ様、アルデバランの初書きでした。
ワタシ的ムウ様の印象はこんなカンジです・・・(笑)

ポセイドン編の前後というのは、生き残った黄金たちの心境を考えると胸が痛みまする。
海底神殿で闘うことも出来なかったし、さぞや歯がゆかったろうなあ。ポセイドン編で白羊宮にまで全員降りてきてケンケンガクガクやってたシーンは、その心中察するとホントーに可哀想です。ミロやアイオリアがよくもまあ我慢したと思う・・・(^^;






モドル