65.世界








 −−−それは、聖戦が終了してから初めての大晦日のこと。

 そもそも一般的な年中行事や時節の風習というものから遠い聖域では、大晦日と言えど日常とさしたる違いも無い。敢えて言うなら聖闘士たちの中に、故郷に里帰りする者がごく一部いて、普段よりやや人気が少ない、というその程度だ。
 教皇職にもあればそれは尚のこと、教皇宮で普段と変わらぬ激務に追われていたサガは、不意に上にある神殿から降りてきたアテナ、こと、城戸沙織の姿に仰天した。
「ア、アテナ!御用であれば、私の方から伺ったものを」
「よいのです。忙しい処をすみません、サガ」
 そう言ってにこやかに笑む沙織に、サガは恐縮して床に膝をつき礼をとって尋ねた。
「で、どうされたのです。何か・・・」
「貴方にお願いがあって来ました。聞いて頂けますか」
 その言葉に、サガは表情を引き締めて声に力を籠める。
「勿論です。何なりと、私の力の及ぶ限り努める所存。どのような事でしょう」
 サガのその様子に、沙織は可笑しそうにコロコロと笑う。
「そのように畏まらなくても、大した事ではないのです。・・・明日の朝、日の出前に神殿に来て頂けませんか」
「は・・・日の出前、ですか」
 思わぬ依頼に、サガはきょとんと女神を見上げる。沙織は構わず、常と変わらぬ微笑である。
「ええ、早い時間に申し訳ないのですが。聞いて頂けますか?」
「・・・承知致しました。必ず伺います、アテナ」
 ありがとう、と沙織はまたにっこりと笑い、それ以上は理由も語ることなく、来た時と同様に唐突に神殿へ戻って行った。
 美しく長い髪が揺れるその後ろ姿を、頭を垂れて見送ったサガは、首をひねる。何だかよく判らない。判らないが、しかしそもそも神の仰ること、判らなくとも仕方ないかと勝手に納得し、ともかく明日の朝はどんな天変地異が起ころうとも、必ず夜明け前に神殿に伺おう、と生真面目に心に決めるサガであった。




 −−−翌朝。
 サガは心に決めた通り、ひとり教皇宮を出て夜明け前の暗がりの中を、神殿へと続く石段を昇っていた。
 冬のさなか、ギリシャとは言え空気は底冷えしている。石段を上へと歩ながら吐く息は白く、後方に流れて次々に薄闇に溶けていく。澄んだ空にはまだ星が輝いていたが、東の空だけは、既にうっすらと鴇色に染まり始めている。
 それを遠く臨みながら、サガは石段を昇りきり、神殿の敷地に足を踏み入れる。すると突然にそれまで感じていた冷気が明らかに弛んで、その区域全体が柔らかな気配に包まれているのが判る。間違えようもない女神の小宇宙が、神殿全体を覆っていた。
 いくら女神がおられるとはいえ、平素から常にそのような気配に満ちている訳ではない。これは明らかに、早朝の寒さの中をやってくるサガを歓迎しての配慮だ。
 心底恐縮しながらサガが神殿の入り口に近づくと、神殿の中からはアテナその人が自ら出てきた。
「・・・アテナ!わざわざお出になることなど・・・!」
「よいのですよ、サガ。外でないと、意味が無いのですから」
 沙織は、やはりいつもと同じ笑顔をサガに向けてくる。
「おはようございます。朝早くに来てくれてありがとう、サガ」
「そのような・・・勿体ない。こちらこそ気を使って頂いて、申し訳なく」
 そう言って膝をつこうとするサガを、沙織は制止する。
「そう畏まらないで下さい。私のごく個人的なお願いで来て頂いたのですから」
 にっこりと、少女らしい笑顔で、沙織は言う。
「実は、一緒に日の出を見たくて」
「・・・は?!」
 女神の言葉の意味をはかりかね、思わず素っ頓狂に聞き返したサガに、沙織は笑う。
「日本では、年が明けて最初の日の出を高い場処で迎え、その一年を恙なく過ごせるようにと願をかける風習があります。・・・初日の出、というのですが」
「・・・はあ、成程」
「聖域で一番高い場処にある神殿と教皇宮。そこに住む私たちは、一番綺麗な日の出を見られるでしょう? 折角だから、一緒に見たいと思って」
 そう言って楽しそうに笑う女神に、何と返したものか見当もつかず、サガはただ黙って頷く。そのサガの困惑ぶりが可笑しいのか、沙織はくすくすとしきりに笑いながら、こちらへ、とサガを促す。
 巨大なアテナ神像を回り込み、神殿の東側に来ると、地平近くの空は先程よりも随分明るくなっていた。
 アテナ神殿は、高い岩山の頂上付近に位置する。そこから眺める聖域は、大層美しい。岩山の斜面を這うように広がる十二宮や、その麓に見えるいくつもの石造りの神殿。夜明け前の薄暮の中、それらは白く浮かび上がるように、静寂の中で佇んでいる。本来であればその向こうにはアテネ市街の灯りも見える筈なのだが、アテナの神結界に覆われて視覚的・聴覚的に外界から遮断された聖域からは、それが見えることは無い。ただ藍色の静かな地平が見えるばかりである。
「此処からの眺めは、本当に綺麗だといつも思うのですよ。こんな景色を独り占めできるのだから、これも役得というものかしらね、サガ?」
 楽しげに言う沙織に、サガも苦笑する。
「そうですね。私にもこれくらいの役得は、許されましょうか」
 勿論です、と笑う沙織の笑顔は、年齢相応の普通の少女とさして変わりない明るさだ。
 ・・・その笑顔と、目前の美しい景観を眺め、サガはふと思う。−−−自分が、このような美しいものをこんな穏やかな気持ちで、この場処から眺められる日が来ようとは。ほんの一年前には思いもしなかったのに、と。
 罪にまみれて、二度と這い上がれない場処まで堕ちたと思っていた。そして実際、一度は死して冥界の奥底まで堕ちたというのに。
 そこから救い上げられ、もう一度生きる場処と術を与えられた。−−−今、傍らにいる小さな少女の姿をした、偉大な女神の力をもってして。
 仕えるべき神も友も、己自身すら裏切り続けたというのに。その自分に、女神はもう一度与えてくれたのだ。女神を護るという本来の勤めと、その勤めを迷い無く行えるだけの信頼と愛情を自分の中から見出す、その力を。
 −−−それはまるで神話の中の伝説のようだと、サガは思う。パンドラの箱の底に残っていた、誰にも傷つけることの出来ない『希望』。多くの闇に埋もれても尚、たった一つ残って世界を照らし続ける。
 それはまるで、この女神のようだ。

 ・・・不意に沙織が、視線を遠い地平に注いだまま、声を上げた。
「−−−サガ、ご覧なさい。夜明けです」
 見れば東の地平から、輝く太陽が顔を出していた。燃え上がる朝焼けの朱が、目を灼く程に鮮烈に、美しい。
 沙織は傍らのサガを顧みて、眩しい朝日の中、柔らかに微笑する。
「・・・綺麗ですね。世界はいつでも、こんなにも美しい・・・そう思いませんか、サガ」
 言うと、沙織はついと右腕を上げて地平に掌をかざす。すると突然、今まで遮断されていた街の姿が地平の上にすうっと姿を現した。・・・サガには、沙織が結界の一部を解いたと判る。
 遠い街の灯りは、朝日を受けて一つ二つと消え始めている。並ぶビル群や家々の姿は日の光に美しく輝き、動き始めた街の音がかすかに耳に届いてくるのも、また心地よかった。
 沙織は、もう一度繰り返し言う。
「世界は、こんなにも美しい。・・・ご覧なさい、サガ」
 沙織の笑顔は、慈愛に満ちた聖母のように、そして無邪気な童女のように、サガに注がれる。その白く細い手が、地平に向けて差し伸べられて。指先が逆光に、眩しく光る。
「・・・貴方がたが護った世界は、こんなにも美しい。貴方がたが愛し、命や時間、心の全てと引きかえに勝ち取った、貴方がたの世界です。これ程美しいものはないと、私は思います」
「そのような・・・私たちではなく、貴女が護って下さった世界と心得ます」
「いいえ、サガ」
 柔らかに、だがきっぱりとした口調で沙織は言う。
「世界の主は、決して私ではなく貴方がた自身だと、貴方がたは忘れてはなりません。ここは貴方たちが長いこと、血を吐くような思いで護った世界。・・・聖域に生きる者が、皆それぞれ計り知れないものを犠牲にしてきたことを、私は知っています−−−そして私が此処を不在にした13年間、闇に苛まれていてさえも尚、貴方が世界を傲慢な神々の手から護ることを忘れなかったことも」
 言葉を失って少女を見つめるサガに、沙織は変わらない微笑を向ける。
「ですからサガ、貴方と日の出を見たいと思いました。・・・新しい年も、そしてこれからもずっとこの世界で、共に生き、共に闘ってゆけるように」
 清廉な朝の光の中、長い髪をなびかせて笑む沙織に、サガは思わず目を奪われる。・・・その美しい、眩しい輝きに。
 あれ程の裏切りを赦し、のみならずこれ程までの光を・・・自分が必要としているものを、彼女が決して間違えることなく自分に与えてくれているのが、判る。
 −−−慈悲や哀れみが、欲しいのではない・・・欲しいのは、理解と強さ。女神の為に闘う我々を導き、惜しみなく我らの力を使い共に生きよと言う強い女神だ。
 今、目の前にいるこの少女こそが、それを持つ。この輝く強さに報いる為に、己の力のすべてを捧げようという誓いは、決して間違っていないと確信できる−−−その確信こそが、喜びだ。
 サガは沙織の前に膝をつき、深く頭を垂れる。
「−−−偽り無い忠誠を、アテナ。そのお言葉さえあれば、我らは幾星霜、身命を賭してお仕えする事ができましょう。・・・それこそが、我らの真の喜びです」
 礼をとるサガに、沙織は困ったように笑う。
「まあサガ。個人的に来て頂いたと言いましたのに、またそのように堅苦しいことを」
 そう言って沙織はもう一度笑うと、サガの手をとり、朝日の中でも霞むことない艶やかさで微笑する。
「・・・新年おめでとう、サガ。どうか貴方にとって、この1年が幸多からんことを」
 その言葉に、サガもまた笑む。
「−−−畏れ多いことです。ですが貴女の幸いこそが、私の幸い」
 サガは、自分の手に重ねられた小さな白い手を、恭しくとった。
「・・・いと高き天より、多くの祝福と幸運が、我らの女神に降らんことを」
 まるで降りしきる星のように。どうか我らを導く勝利の女神に、より多くの勝利を。
 −−−ありがとう、と微笑み返す少女の笑顔は、かけがえなく輝きに満ちる。


 その光が、きっとまた世界を照らす。

 どんな深い闇すら駆逐して。あまねくすべての者たちに光は届くだろう。


 −−−それは限りなく強く・・・どこまでも、やわらかに。










<050101 UP>



明けましておめでとう更新でございます〜〜。はっぴにゅいや〜

ウチのサガは、聖戦後復活してから正式に教皇になっておる設定です。
アテナとサガ、というのはいつか書いてみたかったモノの一つでした。カノ沙織はよく見かけますが、サガ沙織はあまり見かけませんし・・・。
ハーデス編DVDのアテナ自殺シーンの二人、結構イイカンジだと思うんですがどうでしょう〜(笑)

・・・えーと。この二人はそもそもが宿敵なので、本当は掘り下げ始めるとものごっつドロドロしそうだな、というのは承知しているのですが。
しかしそれを判っていても尚、個人的にはサガにはアテナ親衛隊隊長、アテナファン倶楽部会長でいて欲しいのでした(笑)。


モドル