24.何もしない時間
そこは、ただひたすらに静かな場処だった。
がらんと拓けた、広い、世界。
空ばかりが、透明に青くて。
荒涼とした大地に、風が渡り
まばらに見える草地の緑が、その風に煽られる。
その様すら
まるで写真の一コマのようで。
浮かんだ雲は、動かず。咲いた花は、枯れず。
眼を上げれば、僅かに霞む地平線と
それに続く水平線が
薄青く光っている。
−−−そんな場処で。
俺は、長いこと茶を飲んで過ごした。
石造りのテラスの、
質素で小さなテーブルの前で。
−−−差し向かいには
見慣れた綺麗な、紅い髪。
奴もまた、ただ静かに茶を飲んでいる。
真っ白なカップが空になると
奴が手ずから無駄の無い動きで、
ゆっくりと、ポットの茶を注ぐ。
いつまでも冷めることも尽きることもない、
香りたかい茶を
俺と奴は、静かにゆっくり、飲んでいる。
・・・それはもう随分と、永いこと。
時折、俺たちは
ぽつりぽつりと言葉を交わす。
−−−此処、何処だろうな。 俺が問う。
−−−さあ、何処だったろうか。 奴が答える。
俺たち、もうどれくらい此処に居るだろうか。
さあ、判らない。
俺たち、どうして此処に居るのだっけ。
さあ、忘れてしまった。
・・・そこでふと、奴が僅かに眼を伏せる。
−−−でも、確か『女神』が。
奴は、呟くように言葉を紡ぐ。
確か『女神』が、仰ったのだった。
休暇を。
もう全部終わったから、休暇をさしあげましょう。
此処はとても良い処だから、此処にいると良いでしょうと、
そう仰った。
・・・そう言われれば、そうだった気がする。
『女神』・・・『女神』は、大切なひと。命よりも大切な。
でも、それ以上は思い出せない。
−−−一体、何が全部終わったのだったか。
−−−なあ、ところで。
俺は問う。
・・・なあ、ところで俺たちって、誰だっけ?
奴は初めて、うっすらと笑む。
−−−さあ、
判らない。
・・・奴は言う。
判らない。でも。
私はお前を知っているよ。
ずっと昔から。お前のことを、知っている。
かたちのよい唇に浮かんだ言葉が、風に流れていく。
かすかに靡いて光る紅い髪が、
残像となって、眼の奥に焼き付いた。
−−−ふと、
何気なく、手を伸ばした。
瞼の裏に残る、鮮烈な紅の残滓に惹かれて
それ迄はまるで、見えない壁があるように、
触れもせず
ただ、差し向かっていただけだったのに。
小さなテーブルを容易に越えて届いた指先が、
流れる紅に触れる。
滑らかなその感触に、
頭の奥で かちり と何かが嵌った気がした。
はっとして眼を上げると、
奴はただ笑んで、
そこに居る。
−−−知っている。
指に絡んだ髪筋に
口づけて、確かめる。
俺も、知っているよ。
この髪も、眼も、声も。
俺の指が、唇がちゃんと覚えている。
・・・お前を知っているよ。
誰よりも、何よりも。
言った俺の言葉に、奴はわずかに笑みを深め
眼を細めただけだった。
俺も奴も、いつの間にか茶を飲むのはやめていた。
−−−海へ、行こうか。
俺は言う。
海、と不思議そうに奴が問い返す。
俺は彼方を指さして、示す。
彼処にあるじゃないか。水平線が見えるだろう。
俺の言葉に、奴は視線を上げ、
初めて気づいたように、紅い瞳の中に水平線を映して。
・・・本当だ、海だ。
今まで少しも、気づかなかった。
うん、だから行かないか。これから。
でも。
どこかぼんやりと、奴は言う。
でも、『女神』は
言いかけた奴の言葉を、俺は遮って。
−−−だって、休暇なんだろう。
『女神』が下さった休暇だ。
もう全部、終わったから。
何をして過ごしても良い。
何処に行っても良い。
何処まで行っても良い。
−−−だって、永い休暇なんだろう。
そう繰り返した俺に、やがて奴は、
ただ黙ってゆっくりと笑んだ。
−−−もう、全部終わったから。
差し伸べた手に、差し伸べられた手を重ねて。
言えずに失くしてきた言葉を、探しながら
何処までも行こう。
永遠の、休暇旅行。
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