23.森
森、というものを見たことが無かった。
生まれたのはギリシャ、育ったのもギリシャ。勿論ギリシャにも森はあるのかも知れないが、物心ついた頃には既に草一本生えない聖域にいて、滅多に外界に出ずに過ごした。
だから森というモノを見たことが無い。
「私の生まれた国は」
俺のいる天蠍宮から四つ上、十二宮最後の宮の守人が言う。
何の話をしていたのだったか。俺が宝瓶宮へと抜ける途中、丁度アフロディーテが磨羯宮に暇つぶしに来ていた。何となくそれに混じって雑談をしていたら、何故か生まれた国の話になった。
「私の生まれた国は、たくさんの森と湖があった。寒い国だから、針葉樹ばかりの森だったけれど」
いつもの憎らしいくらい不敵な笑みとは少し違う、柔らかそうな微笑を浮かべるので、俺は少しだけ驚いた。驚きながら、耳慣れない単語を聞きとがめる。
「シンヨウジュって、何だ」
そう聞いたら、アフロディーテは途端には小馬鹿にしたように俺を見る。さっきみたいな顔だったらちょっとは綺麗だなとか思うのに、こういう顔だとすごく嫌な奴に見える。
「物知らず。針葉樹、というのはだな・・・」
意気揚々と説明しようとしたアフロディーテは、急にもごもごと言葉を濁す。俺は思いっきり不審な顔で、何だお前も知らないんじゃないかと言ってやったら、アフロディーテは怒り出す。
「君じゃあるまいし、知らない訳あるか! そうじゃなくて、君みたいな物知らずにどう説明したものかと逡巡したのだ! 針葉樹、というのはだな、つまり・・・」
「・・・針葉樹とは、針のように尖った葉を持つ、一年中緑を絶やさない木全般のこと。杉や松がそうだ」
見かねたのか、シュラがアフロの言葉を奪うように口早に説明した。語尾に、少し溜息が混じる。
「・・・ちなみに、普通の幅広の葉で、冬になると落葉する木は広葉樹という」
「ふうん」
俺は、アフロが話のアテにと持ってきた菓子を勝手につまみながら、言う。
「・・・で、その針葉樹がたくさんある国なのか、アフロの故郷」
アフロは俺からクッキーの盛った皿を遠ざけながら(嫌味な奴だ)、そうだと答えた。
「水と森の国だ。美しい処だ」
「森っていうのは、美しいのか。木がたくさんあるだけなんだろう」
少しきょとんとした顔で、アフロもシュラも俺の顔を見る。
「・・・見たことがないのか?」
「ない。滅多に帰ってこないお前らと違って、俺は大抵ここにいるんだからな。仕方がないだろう」
普段自宮を留守にしてばかりいる二人の年長の同僚に対し、俺は皮肉を込めて言った。聖域に常駐している黄金は、今は俺と獅子座、乙女座しかいない。本来12人いる筈なのに、この閑古鳥状態は本当にどうかと思う。今日はアフロもシュラも居て、もの凄く珍しい。だから特別親しいわけでもないのに、こうして雑談に混じっているのだ。(ついでに言うと、丁度カミュもシベリアから帰っている。十二宮後半6宮のうち4宮に人がいるなんて、多分2年ぶりくらいだ!)
俺の皮肉混じりの答えを聞いて、シュラは黙って小さく肩をすくめ、アフロディーテはまた不機嫌になる。
「君の物知らずを私たちのせいにするな。私たちが義務を果たしていないとでも?」
俺は、いくら勅命は果たしていると言ったって、宮を守護するべき人間がそこにいないという時点でかなり義務放棄しているように見えるんだが、と素直にそう言った。途端にアフロは眉をきゅっと上げて、俺を睨み付けた。
「・・・これだから。表面に見えるものしか見ない人間は嫌だな。私たちは・・・」
「アフロディーテ」
アフロの言葉を、シュラが静かに遮る。アフロディーテははたと口を閉じ、溜息だけをついて不満げに黙り込んだ。
一体何を言いかけたか知らないが、俺は何だか馬鹿々しくなったので、席を立った。元々、宝瓶宮のカミュのところに行く筈だったのだ。当初の目的を果たそうと、磨羯宮から出ていこうとする俺をシュラが不意に呼び止める。
「ミロ」
「・・・何だ?」
シュラの方から話しかけてくるのは珍しいので、俺は無視せず顧みた。するとシュラは、いつもの無表情のまま、言った。
「森というのは、美しいものだ。寒い国の常緑樹の森は靄が立つ事が多いが、静かで空気がしんと澄んでいる」
「・・・ふうん」
南国出身のシュラが何故そんな事を知っているのかなとか、こんな話はいかにも生真面目な武人という彼のイメージじゃないなとか、そもそも何でわざわざそんな説明をしたがったのかなとか、色々思った。思ったのだが、殊更問い質すのも面倒だったから、気のない返事だけを返し、俺はそのまま磨羯宮を出た。
外は、うんざりするほど明るかった。
青い空と眩しい日差しが目を射て、真夏の日光が肌を灼く感触がまとわりつく。
石段を昇る俺の頭の中に、先程のシュラの言葉がくるくる巡っていた。それらの言葉が、俺の頭の中に見たこともない風景を呼び起こす。
・・・北の国。身を切るような寒さ。雪の表面や湖の水面から立ち上る白い靄。立ち並ぶ木立の黒い影。清冽で透明な空気。静寂。
見知らぬ風景の筈なのに、俺は何故だかそれを知っている気がして、落ち着かない気分になる。以前カミュを訪ねて行ったシベリアのイメージがダブっているのかな、と思うが、それも判然としない。
眼前に広がる明るい光景と脳内のイメージとのギャップに目眩がしそうだ。もやもやとした気分は苛立ちを生む。
−−−ふと俺は、情景そのものと言うよりは、そこの空気を知っているのかな、と何となく思った。
宝瓶宮に辿り着くと、俺は何だかほっとした。
外の日差しが嘘のような青い薄闇と、ひやりとした空気。苛立ちで少し茹だった頭も、冷める気がする。
宝瓶宮は主がいるのといないのとでは、気温や空気が全然違う。カミュがいると、多分本当に5℃くらい温度が下がっていると思う。
主はきっといつものように私室だろうと思っていたら、入り口から意外に近い辺りに気配を感じる。奥に向かってカミュ、と呼ぶと、程なく暗がりから見慣れたすらりとした姿が現れた。
暗い場処で浮かび上がるように見える紅い色が、さらりと流れて揺れるのが奇妙に目につく。
俺の顔をみとめたカミュは、どうした、と聞いてくる。
どうしたって別にどうしもしないと言ったら、カミュはかすかに笑う。
「・・・おかしな顔をしている。知らない場処にでも、迷い込んだような」
そんな事を言われるのは心外だ。そんな顔に見えるのは、知らない場処の話などして、知らない場処の景色のことなど考えていたせいだろうか。
そうかな、と俺が怪訝な顔をしていたらカミュはまた笑って、手を伸ばして俺の髪に触れてくる。
「−−−あ。」
「・・・何だ」
不思議そうなカミュの顔を、俺は一瞬まじまじと見やり、それから唐突に理解する。
−−−清冽な空気。しんとした静寂。肌を引き締める冷気。
俺の冬の森は、ここだったのだな、と。
わがしの気配(小宇宙)はきっとそんなカンジ。とオモタ。
14~15歳くらいのイメェジ。年中組17~18歳くらい。
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