22.曇りガラス







 カミュが弟子をとることになり、シベリアにも住居を持つというので、奴はここ数日宝瓶宮の大掃除にかかりきりだ。
 あいつは結構マメなので、毎年年末になると大掃除をやっている。だからさして片づけるものもなさそうなのに、いい機会だからとか何とか言いながら、今まで溜め込んでいた本などを一気に整理しようしている。あと一ヶ月もすれば年末だから、少し早めの年末大掃除という心づもりもあったのだろうが。
 俺はどうせ暇だったし、もうすぐカミュとは滅多に逢えなくなるだろうから、少しでも理由を付けてまとわりついてやろうという気もあって、大掃除を手伝うことにした。




「・・・お前、こんなに本持ってたのか・・・」
 宝瓶宮の奥、プライベートエリアの一室で、俺は溜息をついた。
 その部屋が書庫になっているのは知っていた。だが俺は読書にはあまり興味がないから、入ったこともなかった。
 初めて足を踏み入れたその部屋は、本・本・本の山だった。様々な言語の書物が本棚から溢れて、床にまで積み上がっている。
 カミュがその間に座り込んで、黙々と本の分別をしていた。
「・・・いつの間にこんなに集めたんだ? ・・・てゆーか、いつこんなに読んでたんだ」
「時間を見つけて」
 顔も上げずに短く返すカミュの答えは、にべもない。俺はまた溜息をついて手近な本棚から適当に一冊引き抜き、ぱらぱらと頁を繰ってみる。だがそれは見たことも無い文字の本で、勿論俺にはちんぷんかんぷんである(俺はギリシャ語と英語しか判らない。しかも英語はカタコトだ)。
 俺は判りもしない本の頁を、悪戯にめくりながらカミュに問う。
「・・・お前って、何語が使えるんだっけ?」
「ギリシャ語、フランス語、ロシア語、英語。それにラテン語」
「何ッ!?」
 その答えに、俺は仰天した。
「嘘だろう! 何でそんなに知ってるんだ!?」
「何故って・・・」
 俺があまり驚いたせいか、カミュはようやく眼を上げた。どうしてそんなに驚くのか判らない、という怪訝な顔である。
「私は元々フランス出身だし、短期間だがシベリアで修行もした。英語はお前も勉強したろう」
「・・・ラテン語は?」
「趣味」
「・・・趣味!!」
 ・・・信じられない。元々俺と違って机に向かって勉強するのも好きらしいというのは知っていたが・・・趣味などと!!俺など、無理矢理教え込まれた筈の英語一つ、殆ど頭から抜けかけているというのに。一体何が楽しいのか皆目わからない。
 俺は、出会って8年殆ど毎日のように顔を合わせていた友人の顔を得体の知れないもののように見て、本に埋もれるように床に座したカミュの傍に座り込む。
「・・・お前、そんなに言葉を覚えて一体どうするんだ・・・。何か意味があるのか」
「意味など」
 カミュは俺の言葉に笑って、丁度手元にあった本に視線を落とす。
「・・・意味など無い。ただ、面白いと思うだけだ」
「何が」
 俺の問いにカミュは眼を上げて、少しの間どう答えたものかという風に考える。
 それから、ふと書庫の窓を指し示した。
「・・・ミロ。あの窓」
「窓?」
 この部屋には窓が少ない。恐らく書物をなるべく日光に晒さないようにという配慮だろう、その少ない窓には全て磨りガラスが嵌っていて、外の景色は色の付いた影のように滲んで判然としない。
 カミュはその窓を見ながら、言う。
「あの窓の外に、何があるか判るか」
 言われて、俺は目を凝らす。緑の影が風に揺れていてたので、木があると答えた。
「では、何の木か判るか? どういう形の葉を持っていて、どれくらい茂っているのか」
 いきなり何を訳のわからん事を言い出すのかと、俺は呆れてカミュを見る。まるでシャカみたいな物言いだ。
「判るわけないだろう。曇りガラスなんだから」
 その答えに、カミュは意を得たように、薄く笑む。
「・・・歯がゆい感じがしないか? そういうの」
「・・・・・・」
 俺は、奴が何を言いたいのか何となく察して、またちょっと呆れた。
「・・・お前、この世の全てを知ろうとでもいうのか」
「まさか。そこまで不遜じゃない。・・・ただ、形が見えそうなのに見えないのをそのままにしておくと気持ちが悪い。外つ国の言葉というのは特にそういう感じがする。覚えて判るようになると、曇りが晴れていくような気がする」
「・・・そういうものか」
「そういうものだ」
 そう答えて微笑するカミュの顔を見ながら、俺は俺なりに考える。
「・・・俺は、曇りガラスのままでもいいような気がするが。滲んでぼやけた景色も、それはそれで一興だろう」
「お前はそうだろうな。いざとなったら、ガラスなどブチ破りそうだし」
 そう言ってカミュは小さく笑って、手元の本の数冊をとんとんと揃える。そして、珍しく穏やかな目線で俺を見て、言った。
「・・・それくらいの方が良いのかも知れない、とも思う。いくら本を読んでみても、答えの出ない事などいくらでもあるし、全ての曇りを晴らせる訳でもない。・・・だから本当はずっと、私は少しだけお前が羨ましかった」
 これには俺は吃驚して、カミュの赤い瞳を凝視した。
「・・・いつも俺のこと馬鹿だなんだと言う癖に」
 カミュはふわりと苦笑する。
「確かにお前は物知らずだしあまり考えないし、すぐカッとなるし。だから私はそう言うのだけど・・・でも私は、本当の意味でお前を馬鹿だと思ったことはないよ。多分お前は、いつでも、どんな事でも、確実に私より真実に近い場処にいる」
「・・・真実ってなんだ」
「物事の本質。曇りガラスの向こう側」
 そう言ったカミュはそれきり黙り、また視線を落として本の分別を再開する。
 俺は釈然とせず、カミュの手から本を奪い取って言った。
「気にくわないぞ、そういう物言い。普段言わないような事をいきなり言いだして・・・もうすぐ此処からいなくなるから、言い残しがないようにって、そう思ってないかお前?」
 俺の言葉に、カミュは数瞬きょとんと俺を見つめたが、やがて含むように笑む。
「そうかもしれないけれど・・・珍しく穿ったことを」
「珍しくは余計だ! やっぱり馬鹿だと思っているじゃないか」
「思っていない。でもそうやって、すぐに頭に血が上る」
 くっく、と笑ってカミュは手を伸ばしてくる。俺が奪った本を取り返すのかと思ったら、本を握った俺の手にその冷たい手を重ねてきた。
「・・・具体的な事例だ。やはりお前は短気だが、無意識にお前は私の胸の内を読む術を知っている」
 読んでなんかいない、と言いかけて、何だか水掛け論になりそうな気がしたからやめる。・・・代わりに俺は、カミュに尋ねた。
「・・・お前は、曇りガラスの向こうの一体何が知りたいんだ」
 その問いに、カミュはまた少しだけ眼を見開いて俺を見た。
 ・・・そしてしばしの沈黙の後、薄く苦笑する。
「・・・やはりお前は馬鹿ではないよ」
 カミュはそれしか言わなかった。その顔が、いつもの呆れたような微笑とは、ほんの少しだけ違う気がした。
 一瞬だけ、・・・本当に一瞬だけ、俺にはそれが、泣きそうな笑みに見えた。カミュの泣き顔なんて、まともに見たこともないのに。
 俺は、お前こそ曇りガラスのようだと言ってやりたかったし、出来るならそれこそブチ破ってやりたいと切実に思った。だが当のカミュは、何事もなかったかのようにまた本の整理に夢中で、俺は完全に何か言うタイミングを逸した。
 ・・・俺は途方に暮れて、ふと窓を見る。すると書庫を照らす磨りガラス越しの光が奇妙に白々とし見えて、滲む景色は現実感が失せて見える。部屋にたゆとう埃や、カミュの髪の朱がいやに目に付いて、落ち着かない気分になった。
 −−−カミュがシベリアに発つまで、あと数日。
 ・・・俺は何となく、やっぱり俺は馬鹿かも知れないな、とふと思った。








<041016 UP>



14歳(そればっか)。
わがしがチョット情けないカンジですな・・・(笑)
『馬鹿』っちゅう言葉、この二人だと色々意味が変わってきて面白いなあと思ったり。


モドル